2008.08.15 銀は金より
 昨日の北京オリンピックで、体操の男子個人総合決勝で19歳の内村航平選手が銀メダルを取った。その内村選手のお母さまの言葉。

銀は金より良いと書くんです。

なるほど。じゃあ銅は金と同じと書くのかな。漢字っていいなと思った。

 2年ほど前に、FC2ではない別のサイトにブログを書いていた。そこを久しぶりに覗いたら、自分では覚えのない面白い記事もいくつかあった。
 その中に、すぐ忘れてしまうから書き留めておきたい文章があったので、ここに転載しておく。



久しぶりに聖書など開いてみました。
中学高校がキリスト教系の学校だったので持ってました。
しおりが挟まってた場所に書いてあった言葉です。
なんか自分的にタイムリー^^

 自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。
 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また、何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。
(ルカによる福音書 第6章32−35節)


 以前、このブログで『人がストレスに押しつぶされる時』という番組の記事を書かせていただいたが、その番組のゲストであった臨床心理士の藤掛明先生が、ご自身のブログで私の記事を紹介してくださった。私は記事に、適当な事を書いていたのではないかと心配していたが、ご本人から褒めていただいてとてもうれしかった。

 私は先生が番組でおっしゃった言葉に、とても救われた。

 『自分の力だけではないんだ』と思って、運命のようなもの、自分の思惑や人智ではとても及びがつかないような人生の大きな流れみたいなものを、きちんと見て受け止めていくこと生きていくことが、ストレスの解決には大事。

この言葉は、なかなか社会に適応できず自分を許すことができないでいた私を、とても楽にしてくれたのだ。
 そんな気持ちをこめてお礼のコメントをしたところ、お返事にさらにすてきな言葉をいただいた。

 カウンセラーも、カウンセリングを自分の力でしようと思うと、うまくいかないです。相手(クライアント)が勝手に成長し、治っていくんだという側面を絶えず意識しながらいることがけっこう大切なように思います。

今の私には、まさに目からウロコが落ちたような一言だった。

 いつもいつも、自分のことよりも他人に対して気を使いすぎている私である。家族や友人、ネットの友人について、一度相談に乗ってしまったら一生面倒をみなければいけないのではないかとか、なんとか元気にしてあげたい、自立させてあげたい、最後まで見届けたい・・・・勝手に色々な責任感で押しつぶされそうになっていた。それなのに心がついていかなくて、後悔したり自分を責めたり、突き放してみたり急に優しくしてみたり。そして途中からは、誰に課せられたわけでもない義務感でがんじがらめになってしまうのが常であった。

 そうか。人はそんなに弱いものではないのだ。少しだけ話を聞いてあげて、背中を押してあげれば、”勝手に成長し治っていく”生き物なのだ。そして私も、きっとそういう能力を持っているはずなのだ。それを意識しないと、私も母と同じように過保護で依存型の人付き合いしかできなくなってしまうのだろう。
 心に留めておきたい大切な言葉が、またひとつふえた。

涙がでるほど、つらくて、厳しくて、うれしい。

 この言葉は、先月5月26日に75歳で世界最高峰エベレスト(標高8848m)の登頂に成功したプロスキーヤーの三浦雄一郎さんが、エベレスト山頂で言った言葉である。薄い酸素の中で、息も絶え絶えになりながら、けれども一単語ずつしっかりと、その感動を語った三浦さん。
 この言葉の重みには計り知れないものがある。私が普段『つらい』とか言って泣いているのが、ひどくくだらないことに思えた。そして、”つらさ”と”厳しさ”と”うれしさ”とは、同時に湧き上がりうる感情なのだという事を、教わった気がした。私にとってそれは強烈な発見だった。

 三浦さんは持病の不整脈に苦しみ、一昨年と昨年、2回の心臓を手術したそうだ。登山には医師が帯同し、心電図を取るなど細心の注意を払っての挑戦だったそうだ。
 同行した元モーグル日本代表の次男・豪太さん(38)は、途中で高山病「高所脳浮腫」にかかり、登頂を断然せざるを得なかった。それからの三浦さんは、まさに気力との戦い。

最後は疲労困憊(こんぱい)、魂だけで登っていた。達成できたのは自分のプライドが最後まであったから。

 そんなにも頑張った三浦さんを迎えたのは、『神様の作ったすばらしいお庭』という景色だった。

空が抜けるように、宇宙に手がさわるような空。高峰が眼下に広がり、世界を地球を一回り見渡すような天気。

 なんと三浦さんの前日に76歳のネパール人が登頂に成功したため、残念ながら世界最高齢記録はならなかったが、三浦さんはそんな事は気にしちゃいない。登れないのではという大きな不安を超えられたことで、とても満足していると語る。

 私はふと、この言葉を思い出した。

神様は、最後まであきらめなかった者にだけ、時々奇跡のようなごほうびをくれるのだ。

三浦さんは、昨日の早朝、元気に帰国した。



「次は80歳で挑戦」 三浦雄一郎さん帰国 (Yahoo!ニュース)
地球の頂点へ 三浦雄一郎、75歳の挑戦 (MSN産経ニュース)
※リンク先は削除される場合があります。

 見るともなしについていた、朝のNHKニュース『おはよう日本』の中で、「“変わりたい” 〜異色自己啓発本 人気の背景〜」という特集をやっていた。
 今、「夢をかなえるゾウ」という自己啓発本が110万部のベストセラーになっているという。

ゾウの姿をした神様が会社員の「僕」に様々な課題を出し、目標達成に導くという内容だ。他の啓発本にない特徴は、“笑い”を取り入れた点。神様と僕が漫才のような会話を交わしながら話が進んでいく。
番組ホームページより)


 正直、私は”自己啓発”という言葉が好きではない。うつ病になって引きこもるまでの私は、今考えても、毎日を完璧に生きようとしていた。手抜きができない性格だった。友人たちとふざけていても、いつもその瞬間何をするのが最適なのか、考えながら行動していた。
 だから20歳を過ぎたいい大人が、得体の知れないセミナーや本に感化されて”自己啓発”と騒ぎ出すのを、冷ややかな目で見ることが多かった。毎日を真剣に生きていれば、突然そんな事を言い出す必要もないと思っていたからだ。

 この特集コーナーを見ていても、『本を読んで自分を変えようと取り組む人々』が何人か出てきていたが、ふーんと言う感想しか持たなかった。みんな前向きでいいなぁとしか思わなかった。
 むしろ、神聖な神様の象徴である”ゾウ”が、なぜ変な関西弁なのか、そんなところがひどく気になった。

 だが、最後にふと心に響くフレーズがあった。

「本気で変わろ思たら、意識を変えようとしたらあかん。意識やのうて「具体的な何か」を変えなあかん。具体的な何かをな」

これはまいった。私は痛いところをつかれた気がした。

 そう、本当はわかっている。私は自分で「自分を変えたい」と強く思ったことはない。だがそれは、現状に満足しているのではなく、ただ単に自分を取り巻く環境か何かの方に「変わってほしい」と、他力本願に思っているだけなのだ。そして、そんな願いがそうそう聞き届けられるはずもなく、勝手に人生に絶望しているだけなのだ。
 けれども、このフレーズを聞いて、だからといって無理に自分の”意識”を変える必要もないのかと思った。自分の心を形成する根っこの部分なんて、簡単に変えられるものではない。むしろ、まず物理的に何かをしてみることで、あとから自分の無意識の部分が自然に変化していくものなのかもしれない。そしてこれまでだって、知らず知らずのうちにそうやってきたからこそ、今の私があるのかもしれない。

 頭でっかちに考えるより、まずやってみる。やってみて、もし自分には不必要だとわかったら、やめればいい。
 今のうつ病の私には、体を動かしたり外に出たりすることは、とても大変なことだ。だが、このゾウが教えてくれる話の中で、ひとつだけ私にもできそうな事があった。

「これからはな、毎日寝る前に、自分がその日頑張れたこと思い出して「ようやったわ」ってホメや。そうやってな、頑張ったり成長することが「楽しい」ことなんや、て自分に教えたるんや」


 私は、病気のせいかあまり家事ができない。
 夕食も作っていないのに、帰宅した彼の足元にゴロゴロ寝転がって話をしたりしていると、ふと思い出すことがある。

 私には3つ年上の姉がいる。私たちは2人とも同じキリスト教系の学校に通っていた。
 その学校では、”道徳”の授業のかわりに”聖書”という授業が週一回あった。聖書の話を読み、そこから倫理や道徳を学ぶ授業だった。

 聖書で有名な話の一つに、『マルタとマリヤ』という姉妹の話がある。

 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言葉(みことば)に聞き入っていた。
 ところが、マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におっしゃってください」。
 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
 しかし、無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良いほうを選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

(ルカによる福音書第10章38−42節)

この話を知ったとき、姉は私に言ったのだ。

これってうちの姉妹みたいだよね。ぐりえちゃんはいつもママのご機嫌ばっかりとって何にも手伝ってないのに、それでも怒られないの。ただ単にサボってるだけじゃない。ずるい。それなのに妹の方が良いなんて言うイエス様はひどい。

私は、マリヤが自分のようだとは思わなかったが、姉からしてみれば、「お姉ちゃんなんだから」と言ってなんでも我慢させられている自分と、「まだ小さいから」といって甘やかされている私とを、常日頃からこのマルタとマリヤのように感じていたのであろう。

 だが、うつ病になってから、細々とした事ができなくなった私は、今まさにマリヤのようだなぁと思う。病気という大義名分をふりかざして、体はほとんど動かさなくなった代わりに、人の話を聞くことだけは上手になった。というか、それしかできない。

 私も、この『マルタとマリヤ』の話を最初によんだとき、姉マルタに同情した。多くのことに心を配って思いわずらいして何が悪いのか。それに気づいてもらえず、感謝もされず、逆に叱られるとは、あまりにも報われないではないか。
 だからこそ、今マリヤのようになってしまっている自分が情けなく、キライだ。あのとき言われた「ただ単にサボってるだけじゃない!ずるい!」という姉の言葉が、心に去来する。
 と同時に正直に言えば、このイエス様の言葉を利用して、今の自分の状態でも『これは良いことなんだ』と正当化しようとしている、自分の中のその狡猾さが、もっとキライだ。