私の自己愛はゆがんでいる。自分で自分を大切にしないくせに、他人からはよく見られたくて仕方がない。必要としてもらいたくて仕方がない。入院中でさえ、「ここには自分を必要としてくれる人がいない!」という当たり前の事実に気がついて、泣き出したくらいだ。先生も看護婦さんも困っていた、というより呆れていたのを思い出す。
ネットのオンラインゲームやチャットルームで、弱っている人を見つけては、親切そうに相談にのって回っていたのもそのせいだろう。困っている人ならば、きっと私を頼ってくれる。私はそんな人たちのために生まれてきたんだ・・・という勘違いをずっとしてきた。
けれども一人になって冷静に振り返ってみると、それは全て自分のためだったのだと思う。自分を必要として愛してもらって、そのことに自分の存在意義をもたせたいという、まったく自己中心的な考えだったのだと思う。なんという思い上がり。
人間はみな一人なのだということに気づかなくてはいけない。人間は誰かに必要とされなくても生きていける生き物だ、生きていかなくてはならない生き物だ、ということに気づかなくてはいけない。
恥ずかしいけれど、これからは自分で自分を愛する練習をしようと思う。自分で自分を大切にする練習をしよう。それこそが自信だったり勇気だったり、人間としての真の強さを生むのかもしれない。
おばさんと呼ばれようが、知ったこっちゃない。自分、自分、自分。自分が一番かわいい。
クラクション・・・私が車には不要だとおもっている機能のひとつである。都会のドライバーはとかくイライラしている人が多い。必要もないのにクラクションをブーブーと鳴らす人ばかりである。特に危険でもないのに、”抗議”の意味であとから鳴らすクラクション、”どけどけ”とばかりに周囲にばらまくクラクションが大嫌いだ。ただでさえ大きな音が苦手な私は、他人のクラクション音を聞くだけでひどく不快な気分になる。
一方で、”ありがとう”の意味のプッという軽いクラクション合図は、好きである。ちょっと道を譲ったり、狭い道の手前で待機していたり、そういう何気ない気遣いに対するお礼、というコミュニケーションのプッには、顔がほころぶ。
私も小さい音でお礼のクラクションを鳴らしたいのだが、これがなかなか難しい。力加減がよくわからなくて全く鳴らなかったり、うっかり大きな音が出てしまったりする。もう車もこれだけ電子化されているのだから、クラクションのボリューム調整やバリエーションがあってもいいのではないかと思う。
というか、もうクラクションは全部小さい音でいい。みんながみんな、譲り合いの精神をもって周囲に注意して運転していれば、大音響のクラクションなど必要ないのに。
ニュースなどでは、『これで日本の子供たちの理系離れを食い止めるかも』とか『子供たちに夢を与えましたね』などと、何かと子供にからめたコメントをしている人が多かったが、どうだろうかと疑問に思う。
例えば、あまりお金の話はしたくないが、具体的な数字を出すと・・・
つまり、小林先生と益川先生の賞金は約3,500万円ということになる。意外に少ないと思ってしまった私は、感覚が麻痺しているのかもしれない。賞金は1000万スウェーデン・クローナ(約1億4000万円)で、南部氏がその半分を、小林、益川氏が4分の1ずつを分ける。(YOMIURI ONLINEより)
そして、ノーベル物理学賞の先生方の受賞理由は、素粒子研究という、いわゆる理論物理学。机上で仮定の理論を築き、ひたすら論文で議論を戦わせる学問で、理系の世界で言う『物理屋』という人たちだ。
益川先生は、受賞発表直後に『いや、大してうれしくない』と言っておられた。
大変なのは『実験屋』と呼ばれる人々だ。現代の日本では、理工系の学生や、企業へ就職する多くの理工系のエンジニアの多くが、とにかく結果を求められる『実験屋』だと言ってもいいであろう。地道かつスピーディーで失敗のない作業が求められるプレッシャーは、精神的にも肉体的にも過酷なものだ。「だって物理屋としては、我々の言っていることは既に02年、03年の実験で確立された。それがいちばん重要なこと」(Infoseek楽天ニュース)
かといって、『物理屋』などの研究職に進むのも、なかなか安定した職につけないことは、以前記事に書いた通りである。
こんな状況を反映してか、この2日でノーベル賞を受賞された4人の先生のうち、2人はアメリカ国籍である。ノーベル物理学賞を受賞された南部陽一郎先生の場合。
世界から見ても、今回の受賞は「日本人の受賞」という受け取り方はされていないのかもしれない。素粒子物理学の巨人は、戦後間もなく米国へ留学。そのまま滞在したことから、頭脳流出第1号とさえいわれたことがある。若い研究者には、独立心の必要性を熱っぽく語る。「先生の影響から、なるべく早く離れ、研究室から出て行け。そうしないと大成しないぞ」
2年間の予定だった米国留学は「帰っても生活のめどが立たない」状態。つてを頼り、シカゴ大にようやく就職口を見つけた。市民権をとったのは「研究費をとるにも不便だったし、お客さんでいたくなかった」から。(毎日.jpより)
「ノーベル物理学賞を日本人3人が独占した」。2008年10月8日付けの新聞各紙は誇らしげにこう報道した。もっとも、世界の有力紙を見ると「アメリカ人が1人、日本人が2人」になっている。(J-CASTニュース)
益川先生は、麻生太郎首相からお祝いの電話を受けて、こうおっしゃったそうだ。
”技術立国ニッポン”と言っていたのはいつの時代のことであろうか。先生もいろいろと物申したい事がおありなのだろうとお察しする。「科学にあこがれを持つことは非常に有用。科学がすばらしいと思える環境を作ってほしい」と要望。記者から国の政策への意見を問われると、「あまり変なことを言うと差し障りがあるので」とかわした。(毎日.jpより)
ノーベル物理学賞に南部陽一郎、小林誠、益川敏英の3氏(YOMIURI ONLINE)
「既に実験で確立、それが重要」益川氏 (Infoseek楽天ニュース)
ノーベル賞:物理学賞に日本人3氏 驚きと喜び3倍/湯川博士の系譜(その1)(毎日.jp)
ノーベル賞:物理学賞に日本人3氏 驚きと喜び3倍/湯川博士の系譜(その2)(毎日.jp)
「ノーベル物理学賞日本人3人が独占」 欧米では「米国人1人、日本人2人」(J-CASTニュース)
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今まで粉の薬を飲みづらいなんて、思ったこともない私だった。たまに ”粉の薬が飲めない” 人がいると聞いて、どうして飲めないのか不思議で仕方がなかった。ところがこの1週間、この粉薬がノドを通らない。いつもムセてしまう。水と一緒に流し込んでいるはずなのに、なぜか粉だけがノドに引っかかって詰まってしまうのだ。これは辛い。
まるで、突然花粉症になってそれまで他人を笑っていた自分を悔いたときのように、いま私はこれまで粉薬を飲めない人を笑っていた自分を悔いている。オブラートに包んで粉薬を飲む人の気持ちが、初めてわかった。
そうだ。こんどからは、セルベックス ”カプセル” にしてもらおう。
何のためにこんな思いをしてまで、この作業をしているのだろう。まるでそれをしないと罰でも受けるかのような気持ちで、黙々と数字を打ち込んでいるのはなぜなんだ。
家計簿をつけはじめたときの事をふりかえってみた。そう、たしかあれは、初めて買ったPCに家計簿ソフトがついていて、面白半分に自分の買い物記録をつけ始めたのがきっかけだった。けれども私は、そのソフトについている、各項目の月毎や年毎の集計グラフなど見たためしがない。家計を管理している訳でもなく、節約をしようという気もさらさらない。家計簿をつけている事など、まったくもって無意味だったのだ。
そういえば私はよく、毎日体重計にのってその記録をグラフにつけている彼を笑う。『日々の体重を200g単位で測定し管理をすることで、肥満を防ぐことができる。』という話を聞いてから、彼が続けている日課だ。けれども彼は体重を記録するだけで、その原因を探る事もしないし、何か特別な対策をとる事もない。だから私は彼を笑う。「体重の記録をつけただけじゃ痩せないのよー。」
家計簿をつけ続ける私は、そんな彼と一緒だ。むしろ、家計簿をつける時に、彼に向かってこれ見よがしに大きなため息をついたりするから、私は彼よりタチが悪いかもしれない。
私は思った。今日で家計簿をつけるのをやめよう。変なルールで自分を縛るのはやめにしよう。もうこんな事で苦しまなくてもいいんだ。何かから解き放たれたような私は、少しだけ気分が楽になった気がした。
昨日の北京オリンピックで、体操の男子個人総合決勝で19歳の内村航平選手が銀メダルを取った。私がテレビで生中継を見ていたときには、インタビュアーの人が 『具志堅監督につぐ24年ぶりのメダルですね!』 のような聞き方をしていたと記憶している。それに対して内村選手が以下のように答えた。
私は ”つぐ” の意味は、前後の内容から、”次ぐ” なのかなぁと思った。ちなみに上述のニュース記事では ”継ぐ” になっていた。それでもいいのかもしれない。「色が金じゃないんで、まだつげてないですけど、4年後にはこれが金になっているように、これからもっと頑張りたいと思います。」 (FNNニュースより)
ところが今朝のTBSのワイドショーを見ていたら、内村選手のインタビューの冒頭部分が省略されていて、以下のような字幕がついていた。
さすがにこれは違うだろうと思った。「(具志堅監督には)まだ告げてないですけど、4年後にはこれが金になっているように、これからもっと頑張りたいと思います。」
こんな字の間違いは本当にどうでもいいことなのだが、私はインタビューの内容とは全く関係ないところで、”編集” って恐ろしいと感じた。おそらく取材班と編集班は違う人だろう。ビデオを切り取った人と字幕をつけた人も違う人なのだろう。私の脳裏には、人から人へと情報が伝播していくうちに、誰かの解釈が勝手に入る様子が目に浮かんだのだ。そしてテレビなどのマスメディアでこうして字幕がついてしまうと、大衆がそれがすべてだと思って見るだろうからこわい。
私たちは、テレビや新聞やネットから情報を得るときに、それは他人の頭の中を一回通ったものだということを認識しなければいけない。ひとつの偏った情報源だけを頼りにせずに、いろいろな情報を集め正しい目を持って判断しなければいけないと、改めて思った。いい教訓になった。
北京五輪 体操男子個人総合で内村航平選手が銀メダル獲得 (FNNニュース)
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