2008.09.18 関心なし
 ここ数日、ニュースをつけても経済と政治の話題しかやっていない。
 お金が全てと思う人たちと、人の揚げ足を取る事が全ての人たちの話。そして、それを批判するだけのマスコミ。私にはそうとしか聞こえない。聞いていて気分が悪い。

 私は、この国に、この時代に合わない人間なのだろうか。気力がない今は、イライラして胃が痛くなるだけだ。こんな私は、しばらくテレビとか見ないほうがいいのかもしれないと思う。

 私が夜きちんと眠れないのは、寝付けないのではなく”寝ようとしない”のだと、以前書いただろうか。夜12時を回っても、私はどうしてもパソコンの前から離れられない。ネットサーフィンをしたり、パズルをしたり、フラフラになって『そろそろいいかな』と自分が納得するまで席を離れられないのだ。
 それって何故だろうとずっと考えていたのだが、最近ようやく理由が2つ見つかった。

 1つ目は、リラックスを得るために、より高い負荷を自分にかけているのではないかというものだ。
 その考え方のヒントとなったのは、先日 『主治医が見つかる診療所』 という番組で、脳神経外科医の上山博康先生がされていたお話だ。先生は、”ストレスと喫煙は脳梗塞の危険因子である”というお話をされていたのだが、そのときに興味深い説明があった。

 外傷など身体的な負担(ストレス)がかかると、出血を最小限にするために、血管が収縮、血液中の血小板が作用し血液を固まりやすくする。体は精神的なストレスに対しても同様に対応するので、ストレスがかかると血液の塊(血栓)ができやすいと考えられる。
(番組ホームページより)

簡単に言えば、人が危険を感じた時にキューっと血管が縮むのは、その後の出血を最小限にするための防御反応であるということだ。そして、ストレスもタバコも、人にとっては危険なことなのだ。
 ゲストから 『じゃあストレスを感じたときタバコを吸うのはどうしてですか?』 という質問があった。先生は 『私の考えですが』 と断った上でおっしゃった。

 吸い終わった後に血管が緩むことによって、リラックス効果が得られるから。

これを聞いて、私はピーンと来たのだ。私の、夜更かしパソコンもこれと同じ原理なのではないか。極限まで夜更かしを耐え抜いて、もういいだろうと思う頃にモニタを離れて暗い部屋に横たわったとき、『やっと寝れる』 というなんとも言えない安堵の気持ちが、確かに体中をかけめぐるのだ。私は日々、この解放感を得るために、わざわざ無理して夜更かしをしているのではないだろうか。

 また別の理由として考えられるのは、現実を見たくないという気持ちの表れなのでは、という事だ。
 たとえば今、モニタから目を離して部屋を見渡してみる。散らかっている。彼とフェレットがいろいろな物をリビングに持ち込んで、放りっぱなしにして、気がつけばとても雑然とした部屋になってしまっている。棚には埃がつもり、キッチンからはタバコシバンムシが飛んでくる。見ただけで泣きたくなる光景だ。私が片付けなければ誰が片付けるんだろうとは思う。けれども私の体は動かない。動けない。
 そこで私がとる方法は1つ。部屋を見ないのだ。それしかない。そのためには、ずっとパソコンのモニタを見ていればいい。目の焦点が合わなくなり、夢遊病者のように布団にたどり着くのがやっとの状態になるまで、ずっとモニタを見ていればいい。そうすれば現実を見なくてもすむ。

 私は来週、彼の夏休みに伴い、いよいよパソコンから離れた数日間を過ごすことになる。果たして、私のこの 『夜更かし依存症?』 は治るのだろうか?

 最近、昔テレビで見たある映画を思い出す。

 『異人たちとの夏』という映画だ。(ネタバレありです↓↓)

 原田英雄(風間杜夫)は40歳のシナリオ・ライター。妻子と別れ、今はマンションに一人暮らしをしていた。

 ある日、原田は幼い頃に住んでいた浅草に出かけ、偶然、死んだはずの両親に会ってしまう。二人は原田が12歳の時に交通事故で死亡したが、なぜかその時の年齢のまま、浅草に住んでいた。原田は懐かしさのあまり、浅草の両親の家へたびたび通うようになる。

 一方で、原田は同じマンションに住む桂(名取裕子)という女性と、愛し合うようになっていた。彼女は、もう両親には会うなという。異人(幽霊)と近づくと、それだけ自分の体は衰弱し、死に近づくのだ。

 原田はようやく両親と別れる決心をし、浅草にあるすき焼き屋で親子水いらず別れの宴を開いた。暖かい両親の愛情に接し、原田が涙ながらに別れを告げると、二人の姿は消えていった。しかし、原田の衰弱は止まらない。実は、桂も異人だったのだ。男にふられ原田にもすげなくされた桂は、ずっと以前に自殺していたのだった。

 愛と憎しみに狂った異人は原田に迫ったが、友人・間宮の機転で原田は助けられた。その後、体調の回復した原田は両親のもとに花と線香を手向け、静かな夏の日の不思議な体験を回想するのだった。

goo映画 あらすじより)

派手な特撮こそないが、どんでん返しなストーリーと、風間杜夫さんの衰弱しきった姿に、当時元気だった私はショックを受けたのを覚えている。

 だが最近、自分のネット依存状態は、この原田英雄の状態に近いのではないかと思うようになっている。
 今の私のネト友たちは、優しすぎて精神バランスを崩してしまっているような人達が多い。みなが現実の世界から逃避して、子供のような純粋な気持ちで、それぞれがお互いをいたわりあって過ごせる場所。たしかに、癒されるし懐かしいしホッとできる。ずっとそこにいたい。姿は見えないし、触ることもできないけれども、それでもいい。

 けれどもそうすると、現実の自分の体が本当にどうでもよくなってくる。たぶん現実の私は、かなり栄養状態も悪く、運動不足で、目の下のクマがひどい。健康な人からみたら、まったくもって『不健康な生活』をしているのだと思う。こっちに帰って来い!とばかりに、母などは私がネットをしすぎないようにたまに怒る。

 果たして、どちらが幸せなのだろうかと思う。現実の時間を、多くの人と同じように”健康的”に長く生きる事が、そんなに幸せなことなのだろうかと思う。私は今、異人たちとの交流のほうが、私にとっては豊かな人生なのではないかとすら思っている。

 昨日泣きすぎたおかげで、目がだいぶ腫れている。結局、それから睡眠薬を飲んで寝て、朝早くに目が覚めてネト友とチャットをし、さらにまた午前中も寝て、やっと少し気分が落ち着いてきた。

 昨日、私は突然オチた。(”キレる”の逆とでも思ってください。)
 それから涙が止まらなくなり、一度そういう状態に陥るともう何をやっても泣くばかり。頭の中にうかぶ事も、すべてが負のスパイラル。

 今、ようやく落ち着いて、まだそのときの状況の記憶があるうちに、私がどうやってオチていったかメモしておこうと思う。”うつ”をあまりご存じない方や、オンラインゲームをやった事のない人には、理解しかねる事かもしれない。読み飛ばしていただいてかまわない。



 昨日は、最近いつもやっているオンラインゲームが、メンテナンスの日だった。その間に、私は力を振り絞って病院へ行き、買い物をし、なんとか家に帰ってきた。それで、体力的に疲れていたのかもしれない。
 あと1時間ほどでメンテナンスが終わるという頃、母から電話がかかってきた。母の他愛もない愚痴や世間話は、延々2時間続いた。その間、ネト友たちからは『メンテ終わったよー』、『電話まだ終わらないの?』という呼びかけが続く。それで、精神的に疲れてしまったのかもしれない。

 ようやく電話が終わって慌ててゲームにINしたとき、いきなり、経験を共有するチームのようなものに誘われた。みんな待っていてくれたのかな、そう思ってイソイソと参加してみたのだが、そうではなかった。人数は足りているし、もうみんなで何かして遊んでいるようだった。むしろ、私が参加したことで、一人多い状態になってしまって、私は邪魔者だった。なぜ私が呼ばれたのかわからなかった。

 私は、みんなの楽しそうなチャットログを呆然と見ながら、そのチームを抜けようと思った。けれども、その中には、私がいなければこのゲームをやらないと以前言っていた人が2人いた。今ここで、私が抜けてしまったら、彼らはどう思うだろう。私は、彼らのために、そこにい続けなければいけないと思った。
 それにしても、みんなが楽しそうで本当によかった。みんなは私の存在を、つかの間忘れて楽しんでいる。その生き地獄のような状況でも、私はそこから逃れることはできない。私はそれをしっかり見て、しっかり聞き続けなければならないと思った。それが、私に与えられた罰なのだ、試練なのだと思った。

 このときもう、私の心はオチていたのだと思う。知らないうちに、涙が出ていた。
 しばらくたってから、何事もよく気がつく子が『私と交代しよう!』と言ってくれたが、もう私はゲーム内のキャラクターを動かすことができなかった。『いや俺が』、『俺も休憩』、突然みんなが気を使い始めた。言われれば言われるほど、涙が止まらなくなった。私はとにかく、居留守を使った。

 今、私は泣いている。誰が悪い?誰も悪くない。全ては私のわがままで、思い込みだ。そして、私がいる事でみんなが困っている。誰が悪い?誰も悪くなくて、私の存在がみんなを困らせているんだから、私が悪い。私の存在自体が悪い。でも、だからと言って私がいなくなったら、もっとみんなを困らせる。
 胃がキリキリと痛んだ。呼吸が苦しくなった。



 たかがゲームと思うかもしれないが、現実生活でもまったく同じことが日々繰り返される。これが、うつ病の人の多くが、起きている間じゅう常に考えている思考そのものなのだと思う。

 夜、寝ようとしていた彼が、顔中涙でぐちゃぐちゃにしている私に気づいて、「どうしたの?なんかあった?」と聞いてきた。別に何もないから、私は首をふった。「どうしたらいいかわからない。」と彼は困惑して寝てしまった。たぶん、話したところで、健康な彼にはとうてい理解できないだろう。
 私も、どうしたらいいかわからないのだから。

 今朝、同じうつ病を病むネト友が、『俺もそういう事よくあるよ。』とか、『お互い難しい病気なんだからゆっくり治していこう。』とか、『俺でよければそばにいますよ。(←変な意味じゃなく)』とか、泣きじゃくる私を一生懸命に力づけてくれた。”支えてあげよう”とか偉そうな事を言って仲良くなったネト友に、逆に励まされてしまった。誰かに支えてもらいたかったのは、本当は私の方だったのかもしれない。
 うつ病のもの同士には、健常者には分かり合えない何かがある。出てくる言葉に重みがある。そしてようやく、私の涙は止まった。

「どう?満足?また他人を1人依存させて、これで満足?」

そんな声がどこかから聞こえてきた。

 実は、朝、松井冬子さんの記事を書いた直後、モデムが壊れた。正確に言うと、壊した。アロマポットの水がこぼれて、モデムにかかってしまったのだ。ほどなくしてネットが切断されてしまった。光IP電話もつながらない。

 さあ困った。こんなとき、携帯電話があって本当によかった。携帯電話がなかったら、外部との接触が立たれてしまったら、私は大都会の難民になるところだった。
 あわててNTTに電話をしたら、午後には業者さんが来てくれるという。今日は朝からめまいがして調子が悪く、本当は知らない人を家に入れるなんてお断りの状態だったのだが、そうも言っていられなかったので、すぐにお願いした。

 何時に来るかわからない業者さんを待って、私は時間をもてあましてした。ブログの更新をしよう。家賃の振込みをしよう。母の日のプレゼントを贈ろう。思いつく事がみな、ネットがなければできない事ばかりだった。
 ネットがあってあたりまえの生活。ネットがなくなった私は、何をすればいいのかわからなかった。
 昔は楽しかったテレビも、どこか楽しめなかった。私の気持ちを表現することができない一方通行のメディアに、今さらながらむなしさを感じた。

 耳が聞こえない。目が見えない。どこへもいけない。まさにそんな感覚だった。ほとんど引きこもって生活している私にとって、いまや五感と並ぶ体の一部ととなってしまったネット。こんな私は、やはりネット依存症なのだろうか。

(回線復旧後に転記)

 ここ数日、はしゃいだり、イライラしたり、ふざけたり、怒ったり・・・、感情の起伏が激しくなってきた。もちろんネット上でのことだ。一人で孤独に耐えながら無表情に日々を淡々とすごしていた私が、”居場所”ができつつあると、こうもいろいろな感情を出すのかと、驚くばかりだ。

 しかも手に負えないことには、そういう感情のコントロールがうまくできていない。昨日の夜はオンラインゲームで、”空気を読まない行動”をする赤の他人にイライラして、嫌味とか注意とかいろいろチャットに振りまいてしまった。どうやら私は、友人が回りにいて支えてくれていると思うと、安心して正義をふりかざす癖があるらしい。だが結局、私が自分のイライラに耐えられなくなり、過呼吸ぎみになって倒れてしまった。

 私はなんとなく気づいている。私の事を理解してくれそうな人がいると、その人に『自分はこんなに頑張っている、そして本当は弱くてもろくて壊れそうだ。』というところを見せ付けたいのだろう。こういう行動はみんな、いわば”甘え”なのだろう。ごめんなさい。かえって空気をおかしくして本当にごめんなさい。「悪いことしてないんだから、ごめんなさいとか言うな!」と友人は言ってくれたが、やっぱりごめんなさいとしか言いようがない。

 家での今の生活もそうなんだと思う。もし私が本当に一人ぼっちだったら、生きていくお金もなかったら、こんなにゴロゴロして死にたいとか言ってないで、『なんとか生きていこう』と思うのではないだろうか。だれかが優しくしてくれるから、甘えているだけなのではないだろうか。

 夕方、再放送していたドラマ『アンフェア』の最終回を見て、泣いた。
 瑛太さん演じる”安藤”という男が言ったのだ。

「憎しみだけを・・・原動力にして生きていくのは・・・もう・・・疲れました。」

私がこれから長い間生きていくとしても、夢も希望もないわけで、そうすると、恨みや憎しみや嫉妬だけを原動力にするしかないのではないかな、と思うと辛すぎて涙が出てきたのだ。
 というか、既に私には会社や世の中への恨みだけしか生きる原動力がなくなっていて、そしてその事に疲れきっていて、だからこそ”安藤”のセリフに勝手に感情移入して涙があふれてきてしまったのかもしれない。
 そして、最終的に愛する人に殺された”安藤”の事を、なんて幸せなんだろうと心から思った。