昨晩、NHKの「ニュースウォッチ9」を見ていたら、特集でTwitterというつぶやきシステムをとりあげていた。誰かのつぶやきに誰かがつぶやきを返すことで、ゆるいつながりが発生していくのだという。これなら、”依存”など生じないのだろうかなどと思い、ためしに登録してみた。ところが、どこが面白いのかさっぱりわからない。うちわにしかわからない言葉を使っているような人が多い。ちょっとした疎外感を感じた。
こういうシステムは、2ちゃんねるなどもそうであるように、”誰かへの依存”という心配はなさそうだが、自分のつぶやきへの返信がないと不安だったり、常に更新ボタンを押していたり、・・・という”システムへの依存”はありそうだなと思った。ためしに『Twitter依存症』で検索してみたが、それらしい人はまだいない模様。
このブログをはじめた当初から書いているように、これまでの私は、ネットはネット、リアルはリアルと、それぞれを完全に区別して別世界を築いてきた。リアルが苦しくなったらネットに、ネットが苦しくなったらリアルにと、常に逃げ道をつくっていたのかもしれない。けれどもその二重生活自体が苦しくなったとき、私のうつはピークを迎え、逃げる場所すらなくなってしまった、どこにも居場所がなくなってしまったという時期もあった。
昨日の楽しいひとときは、私の中でネットとリアルが統合できた、象徴的なできごとだったのかもしれない。顔も見えない相手だからこそ本音で語り合ってきたネットの友人たちとは、実際に会っても今さら隠すところなどなく、いきなり気のおけない友人になっていた。
これでよかった。これがよかったのだと思う。
「楽しんできなよ。」と背中を押して送り出してくれた夫に感謝。海外旅行のお土産や、自分で漬けた梅酒をわざわざ持ってきてくれた友人たちに感謝。気のきかない私は、ただそこに存在して甘えていただけで、誰にもお礼らしいお礼ができなかった。
ちゃんと社会性を取り戻して、しっかりした大人にならなくちゃ。そうなりたいと思えた。いつか少しずつでも、感謝の気持ちを返していけるようになりたいと思えた。
正直、久しぶりの外出で今日は体に疲れがたまり、手足がだるい。だが心地の良いだるさだ。
現実逃避をしようと昼間から薬を多少多めに飲んで、せっかく深い眠りについてたのに、父親から100回ぐらい電話があって起こされた。
しかも『どうして電話に出ないっ!』って怒鳴られた。あとから見たら、留守電にも『電話が通じないっ!壊れてるのかっ!』 と怒りのメッセージが入ってた。
たいした用事でもないのに、なんか父親そういうところおかしいんだ。一つのことにこだわると、絶対にそこから動かないで自分の主義主張を通す人なんだ。
うつ病のことも”病気”と認めない人。『気合が足りない。』と平気で言う人。
人の気も知らないで・・・
もういやだ・・・・
また薬を飲みなおすとするか。
お金が全てと思う人たちと、人の揚げ足を取る事が全ての人たちの話。そして、それを批判するだけのマスコミ。私にはそうとしか聞こえない。聞いていて気分が悪い。
私は、この国に、この時代に合わない人間なのだろうか。気力がない今は、イライラして胃が痛くなるだけだ。こんな私は、しばらくテレビとか見ないほうがいいのかもしれないと思う。
それって何故だろうとずっと考えていたのだが、最近ようやく理由が2つ見つかった。
1つ目は、リラックスを得るために、より高い負荷を自分にかけているのではないかというものだ。
その考え方のヒントとなったのは、先日 『主治医が見つかる診療所』 という番組で、脳神経外科医の上山博康先生がされていたお話だ。先生は、”ストレスと喫煙は脳梗塞の危険因子である”というお話をされていたのだが、そのときに興味深い説明があった。
簡単に言えば、人が危険を感じた時にキューっと血管が縮むのは、その後の出血を最小限にするための防御反応であるということだ。そして、ストレスもタバコも、人にとっては危険なことなのだ。外傷など身体的な負担(ストレス)がかかると、出血を最小限にするために、血管が収縮、血液中の血小板が作用し血液を固まりやすくする。体は精神的なストレスに対しても同様に対応するので、ストレスがかかると血液の塊(血栓)ができやすいと考えられる。
(番組ホームページより)
ゲストから 『じゃあストレスを感じたときタバコを吸うのはどうしてですか?』 という質問があった。先生は 『私の考えですが』 と断った上でおっしゃった。
これを聞いて、私はピーンと来たのだ。私の、夜更かしパソコンもこれと同じ原理なのではないか。極限まで夜更かしを耐え抜いて、もういいだろうと思う頃にモニタを離れて暗い部屋に横たわったとき、『やっと寝れる』 というなんとも言えない安堵の気持ちが、確かに体中をかけめぐるのだ。私は日々、この解放感を得るために、わざわざ無理して夜更かしをしているのではないだろうか。吸い終わった後に血管が緩むことによって、リラックス効果が得られるから。
また別の理由として考えられるのは、現実を見たくないという気持ちの表れなのでは、という事だ。
たとえば今、モニタから目を離して部屋を見渡してみる。散らかっている。彼とフェレットがいろいろな物をリビングに持ち込んで、放りっぱなしにして、気がつけばとても雑然とした部屋になってしまっている。棚には埃がつもり、キッチンからはタバコシバンムシが飛んでくる。見ただけで泣きたくなる光景だ。私が片付けなければ誰が片付けるんだろうとは思う。けれども私の体は動かない。動けない。
そこで私がとる方法は1つ。部屋を見ないのだ。それしかない。そのためには、ずっとパソコンのモニタを見ていればいい。目の焦点が合わなくなり、夢遊病者のように布団にたどり着くのがやっとの状態になるまで、ずっとモニタを見ていればいい。そうすれば現実を見なくてもすむ。
私は来週、彼の夏休みに伴い、いよいよパソコンから離れた数日間を過ごすことになる。果たして、私のこの 『夜更かし依存症?』 は治るのだろうか?
『異人たちとの夏
派手な特撮こそないが、どんでん返しなストーリーと、風間杜夫さんの衰弱しきった姿に、当時元気だった私はショックを受けたのを覚えている。原田英雄(風間杜夫)は40歳のシナリオ・ライター。妻子と別れ、今はマンションに一人暮らしをしていた。
ある日、原田は幼い頃に住んでいた浅草に出かけ、偶然、死んだはずの両親に会ってしまう。二人は原田が12歳の時に交通事故で死亡したが、なぜかその時の年齢のまま、浅草に住んでいた。原田は懐かしさのあまり、浅草の両親の家へたびたび通うようになる。
一方で、原田は同じマンションに住む桂(名取裕子)という女性と、愛し合うようになっていた。彼女は、もう両親には会うなという。異人(幽霊)と近づくと、それだけ自分の体は衰弱し、死に近づくのだ。
原田はようやく両親と別れる決心をし、浅草にあるすき焼き屋で親子水いらず別れの宴を開いた。暖かい両親の愛情に接し、原田が涙ながらに別れを告げると、二人の姿は消えていった。しかし、原田の衰弱は止まらない。実は、桂も異人だったのだ。男にふられ原田にもすげなくされた桂は、ずっと以前に自殺していたのだった。
愛と憎しみに狂った異人は原田に迫ったが、友人・間宮の機転で原田は助けられた。その後、体調の回復した原田は両親のもとに花と線香を手向け、静かな夏の日の不思議な体験を回想するのだった。
(goo映画 あらすじより)
だが最近、自分のネット依存状態は、この原田英雄の状態に近いのではないかと思うようになっている。
今の私のネト友たちは、優しすぎて精神バランスを崩してしまっているような人達が多い。みなが現実の世界から逃避して、子供のような純粋な気持ちで、それぞれがお互いをいたわりあって過ごせる場所。たしかに、癒されるし懐かしいしホッとできる。ずっとそこにいたい。姿は見えないし、触ることもできないけれども、それでもいい。
けれどもそうすると、現実の自分の体が本当にどうでもよくなってくる。たぶん現実の私は、かなり栄養状態も悪く、運動不足で、目の下のクマがひどい。健康な人からみたら、まったくもって『不健康な生活』をしているのだと思う。こっちに帰って来い!とばかりに、母などは私がネットをしすぎないようにたまに怒る。
果たして、どちらが幸せなのだろうかと思う。現実の時間を、多くの人と同じように”健康的”に長く生きる事が、そんなに幸せなことなのだろうかと思う。私は今、異人たちとの交流のほうが、私にとっては豊かな人生なのではないかとすら思っている。