昨日、母と電話をした。実家の愛猫が天に召され、父が長期出張に出かけ、母が一人ぼっちになってしまったからだ。
母も、外国に住んでいる姉も、毎晩「みんなが健康で長生きしますように」とお祈りをして寝ていると言う。そこで私は「私は『早く死ねますように』ってお祈りしてるのになかなか叶わないの」と言ったら、母に怒られた。母より先に死んではいけないと言う。「大丈夫。自分で死んだりはしないよ。」と約束したが、それでもダメだという。病気でも事故でも、先に逝ってはいけないと言う。順番を守りなさいと怒られた。
私は思った。そんな約束は出来ないよ・・・・
10月27日公開の映画「象の背中」の主題歌でもあるCHEMISTRYの「最期の川
最期の川 Lylic by 秋元康
「しあわせだった?」なんて 聞かないでくれ 愛しき人
腕に抱きしめて 僕が聞きたいよ 君がしあわせだったか?
終わらない道は きっとない 見送る人 涙拭いて
背中見届けて・・・僕は一人きり この川を 今 渡る
最近、YouTubeでJPOP聞くのが自分の中で流行ってて、ビビっと来た歌をペタペタ貼ってます。特に意味はありません。お気になさらず。いい歌って探せばいろいろあるもんです。
ここにいるよ Music & Lylic by SoulJa
Baby boy わたしはここにいるよ どこもいかずに待ってるよ
You know dat I love you だからこそ 心配しなくていいんだよ
どんなに遠くにいても変わらないよこの心 言いたい事わかるでしょ?
あなたのこと待ってるよ
以前「依存は心の問題」という記事で、『知っておきたい「依存症」のメカニズム~ どうして依存症になるの?』の一文
を引用したが、その通りだった。オンラインツールを削除して、オンライン依存症を克服したように見えたが、今度はブログ依存症。結局今の自分のままでは、何をやっても何かに、または誰かに依存してしまうことは明らかだ。依存症を克服するには、自分が夢中となる対象を「断つ」ことも大切です。しかし、それよりもっと目を向けなければならないのは、何かに依存しなければ安定を保てなかった“自分の心”の問題なのです。
逆に「依存したっていいじゃないの!」と開き直ってみたりもする。もしこれが仕事だったら、もしこれでお金をもらっているのだったら、「趣味が仕事で羨ましいね」ですむ事なのだ。仕事熱心な人なのだ。誰だって何かにしがみついて生きているのだ。悪いことだと思うから、罪悪感でいっぱいになるのだ。別に誰にも迷惑かけてなければいいじゃないの!
昨日「Webメッセンジャー」という機能を発見してしまった。MSNのページからブラウザでメッセンジャーが使えるのだ。ついオンラインにしてしまった事を今は後悔している。私はなんて意志が弱い人間なのだろう。一瞬でも戻ったことで喜んではもらえなかった。「おかえり」という言葉もなかった。またいつもの事だと思われているのだろう。適当な人間だと思われているのだろう。あまり関わりたくないとすら思われているのかもしれない。本当はこんなに苦しんでいるのに。
ここで一曲。こんな私の心境にピッタリな柴田淳さんの『ため息』
ため息 Music & Lylic by 柴田淳
たとえば僕が 今を生きようと 全てを投げ捨てたなら
どうなるのかな 壊れるのかな なにもかも終わるだろう
それでも いつかは ここから抜け出してみせるんだと
つぶやいて 飲み込んで 悲しいけど・・・これが今の力
色のないため息ひとつ 風はこんな僕を隠してゆく
枯れ果てぬため息ふたつ 誰も僕の存在など知らない
たとえば僕が あの日に戻って 全てやり直せたら
何をしようか どこに行こうか 少し旅に出ようか
それでも やっぱり きっと僕はここに戻ってくる
わかるから 自分だもの 意気地のない弱い僕だから
白く立つため息ひとつ 冬はこんな僕を見逃さない
宛てのないため息ふたつ 違う人になんてなれない
色のないため息ひとつ 風はこんな僕を許してゆく
宛てのないため息ふたつ 今はまだここから動けない
私の興味は番組の後半。哲学的な話の部分である。後半の話題のキーワードは「寛容(torelance)」という言葉であった。キリスト教でいえば『右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい』という、アレである。腸には約1億もの神経細胞が集中し、別名『セカンド・ブレイン』とも呼ばれている。 上野川はそんなカラダの中の小宇宙に魅せられ、30年以上研究を続けてきた腸管免疫学と 腸内微生物学の第一人者。
腸には細菌が100兆個あるという。免疫の世界では、これらの細菌を排除せず受け入れる事を「共生(commensal)」という。本来なら異物を排除する防衛機能である免疫も、食べ物や共生細菌が口から入ってきた時は、腸に届くまで過激な免疫反応(アレルギー)をおこさない。このように免疫は、排除する力と慣用する力との微妙なバランスを持っているらしい。
大昔から、人間の腸には腸内細菌が住み着いて、それによって免疫ができている。同じように我々人間社会も、寛容の心をもって色々なものを受け入れ、共生していかないと生きていけない、地球上の共生も、宇宙全体の共生もみな同じだ、と教授は言う。
腸の中に寛容と共生の宇宙を見た
「寛容」という言葉で私が思い出すのは、結婚式などでもよく朗読される、この聖書の一節である。
人間社会で寛容であるという事は、本当に難しいことだと思う。礼拝や説教などでこの一節を引用され、「寛容であれ」と言われても、いまいちピンと来ないことが多かった。だが今日は「寛容」の意味が具体的にわかったし、自分の体が無意識にそうしているのなら脳の方でも意識して努力しようと少し思えた気がした。なんでも嫌だ嫌だと排除ばかりせず、多少異質なものでも受け入れていく事も必要なんだなと思えた気がした。結局は自分のためになるのだから。愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない。自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
(コリント人への第一の手紙 13章4~7)
これから牧師さんたちも、結婚式で腸内細菌の話を引用されるとよいかもしれない。(汚いからダメ?)
また「共生」という考え方、これは私が昔から大好きな考え方である。
共生は支配することとは違う。支配されることでもない。お互いのいい部分を活かして、与えられた環境で、共に成長していくことでもある。どちらか一方がくじけそうになっても、支えあっていく生き方である。自分さえよければ、などという考え方は論外である。
政治や経済の世界でも、みんなが「共生」の理念を持っていればいいののいなと思うことが多々ある。私一人が叫んでもどうにもならなくてもどかしいが、少しでもそういう世界になることを願うばかりである。
最後に、生物を学ぶということは自分自身を学ぶことでもある、という上野川教授の言葉が印象的であった。
なお、次回(10/31)のテーマは『ひきこもりでセカイが開く時』だそうだ。自称ヒキコモリの私にとって、とても楽しみなテーマである。