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ハロウィンらしい
2007.10.31 Wed 19:01 | エッセイ | 小説・文学
 今日はハロウィンらしい。さっき心療内科へ行ったら、途中で仮装した子供達の集団と出会って気が付いた。
 私はハロウィンというと、どうしても日本人留学生射殺事件を思い出してしまう。

留学していた日本人の高校生が、ハロウィンに留学先の友人と出かけた。しかし、訪問しようとした家と間違えて別の家を訪問したため、家人から侵入者と判断されて44マグナムを突きつけられ、「フリーズ(Freeze、訳:動くな)」と警告された。しかしながら高校生は止まらずに男性の方に進んだため射殺された。
(なお犯人は正当防衛が認められ、陪審員全員一致の評決で無罪)

 高校生は「フリーズ」と「プリーズ」を聞き間違えて射殺されたのだった。1992年の当時は日本に「フリーズ」なんて言葉がなかった。あれから15年もたったのか。今ではもう事件を知らない若者も多いのだろう。

 クリスマスでもバレンタインでもハロウィンでも、なんでも西洋の文化を真似するのは結構だが、英語圏文化には必ず宗教的背景があることを忘れてはならない。ハロウィンは「諸聖人の日」の前夜祭の事。またケルト人にとってはお盆のようなもので、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられており、これらから身を守る為に仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていたのが、仮装の由来だそうだ。

 さっきすれ違った子供達は、前後左右を母親たちに囲まれて、「静かにしてないとおやつもらえないよ」と注意されながら2列になってゾロゾロと歩いていた。道順も決められているようで、所々にかぼちゃのランプをもった保護者が、お通夜の案内人のように立っていた。子供達の衣装もメチャクチャで、ハリーポッターのような本格的な子もいれば、なぜかピアノの発表会のようなドレスを着ている子もいた。よくわからないが楽しいのだろうか?楽しければまあ私が目くじら立てることもないか。

 そして私は久しぶりに食料を買い込んで帰ってきた。ここ数日パンとシリアルしか食べていなかったせいか、口内炎がたくさんできて痛い思いをしていて、少しはまともな食事でもしないといけないと思い、簡単に食べられそうなものをいろいろ買い込んできたのだ。これでまた何日か引きこもれると思うと安心だ。

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決意の朝に
2007.10.31 Wed 14:38 | ネット依存症 | 心と身体
 今度こそネト友の前から消えよう。そう決意した。仲良しのネト友に「今までいろいろとありがとうございました」と言ったら「いえいえ^^」と言われた。「バイバイ」と言ったら「また戻ってくるの待ってるよ^^」と言われた。すごくむかついた。これは確固たる決意なのである。真剣に聞いてほしかった。

 ふと「決意の朝に」という曲を思い出した。メロディーはよく知っていたもののアニメの主題歌と思って少しバカにしていて、歌詞をあまり読んでいなかった。さっき聴いたらとてもいい歌だった。


決意の朝に Music & Lylic by 太志

辛い時 辛いと言えたらいいのになぁ 僕達は強がって笑う弱虫だ
淋しいのに平気な振りをしているのは 崩れ落ちてしまいそうな自分を守るためなのさ
僕だけじゃないはずさ 行き場のないこの気持ちを
居場所のないこの孤独を 抱えているのは・・・

 今の私も笑っている。平気な振りをしている。でも装っていれば、いつか本当にそんな気持ちになってくるから不思議だ。これまでの人生はずっとそうやって辛いことを我慢してやってきた。心はそうやって環境に適応していくものなのだと思っていた。
 そう考えると、本心を隠して強がっている自分と、生身の自分、どっちが本当の自分なのかわからなくなる。どっちも本当の自分ではないような気がする。

幼稚な自己愛
2007.10.31 Wed 10:32 | ひきこもり | 心と身体
 昨日の「爆笑問題のニッポンの教養」~ひきこもりでセカイが開く時~は、相当私に衝撃を与えたようだ。寝るまでずっと番組の内容を思い出して考えていたし、今朝起きてからも、ブログを訂正しないと、いやそれより追記しないとと、考え込んでいた。

 まず、昨日の斎藤先生の「心の病が治ることって?」に対する答え

精神医学の目標は「心を解放」「心の多様性回復」「心の自由度回復」によって、自分で結論を出せる状況にもっていってあげる事である。

であるが、どこかで同じような事を聞いたような気がした。過去ブログを検索したら、以前同じ番組の「生物が生物である理由」の回で、分子生物学者の福岡伸一教授が言っておられた言葉が出てきた。

我々はなぜ勉強しなくてはいけないのか?それは自由になるためである。ある既成の概念とは違う見方ができるようになるためである。新しい知識を得ないと、新しい見方ができないのである。

 そうか。私はもっと勉強しなければならない。心の勉強をしなくてはならない。今までの凝り固まった「既成の概念」とは違う見方をするために、心の自由を得るために、もっと新しい知識を得なければならない。もっと新しい考え方を知らなければならない。もっと自分から遠い、他者の考え方を知らなければならない。

 昨日の繰り返しになるが、ひきこもって何もしていない者は、そんな何もしていない自分に自己批判や自己否定を繰り返す。プライドが高いかわりに自信が全くない、まさに「自縄自縛」の苦しい状態。
 私も同じである。今の社会に許せない事が多すぎる。そんな自分が大嫌い。こんな世の中で生きていく自信がない。そんな自分が大嫌い。自分しか自分を理解できないと真剣に思っている。そんな自分が大嫌い。
 どうしてこんなにも、自分を好きになれないのだろう。もっとも幼稚な「自己愛」は「自分が愛する対象は自分しかいない」という考え方だそうだが、私はまだこの段階から成熟していないのだろうか。まずそこをクリアしないことには次に進めないではないか。

 高校時代ひきこもって友達がいなかった太田さんがふっきれたきっかけは、ピカソの「泣く女」だったことは以前も言っていた。太田さんはそのメチャクチャな絵にピカソの「なんでもいいじゃん。どっちもあるだろう人間なんだから。」というメッセージを受け取ったという。
 そのとき、今までの自分の美意識が高すぎた事を知り、自分が俗物であると「妥協」できるようになり、自分を許せるようになったという。それから次第に自分が好きになってきて、芸術作品を見るといいなと思えるようになり、そしてそれをいいなと思える自分が好きになり、また他人を好きになれるようになり、そんな自分を好きになり、どこまで行っても自分を好きになってきたという。
 斎藤先生いわく、それが「自己対象と有益な出会いをして自己愛が成熟していく過程」である。

 昨日、そういえば斎藤先生が言っていた。人には2つのタイプがあってコミュニケーションが下手な人と、コミュニケーションが得意な人がいる。これは必然であって、自分がありすぎるとコミュニケーションが下手になり、自分があまりないとコミュニケーションが得意になっていくのだと。
 爆笑問題の太田さんはおそらく前者であり、自分の意見を聞いて欲しい、自分に構ってもらいたい気持でいっぱいだと、田中さんが言う。何事も、自分の内面で起こることに感心があるのだ。

 私もおそらく前者であろう。自分がありすぎるのだ。誰かにそんな自分を気づいて欲しい。誰かに知って欲しい。誰かに構ってもらいたい。しかしそれに反して、困ったことに「妥協」ができない。極論のカードしか手元にないのだ。
 私の当面の目標は「妥協」を覚える事であろう。自分を好きになれまでとは言わないが、自分を諦めるのではなく、自分を許す。まずそれができればいいかな。

ひきこもりで悪い?
 毎週楽しみにしている「爆笑問題のニッポンの教養」、今夜のテーマは、自称ひきこもりの私が、今までで一番楽しみにしていたとも言える「ひきこもりでセカイが開く時」であった。

 今回の先生は、国内では推定100万人とも言われる「ひきこもり」の研究の第一人者、精神科医の斎藤環先生。斎藤先生はまた、文学や現代美術、映画から漫画やアニメなどのサブカルチャーの批評家でもある。

 今、アニメやライトノベルの世界では「セカイ系」が主流だそうだ。セカイ系では、「きみとぼく」の外にいきなり宇宙や世界がつながって描かれており、社会が省かれているのが特徴だ。敵がわからない。そもそも敵かどうかもわからない。何を目的として戦っているのかもわからない。漂うのはただ万能感と無力感。
 これらを見て育った今の日本の若者達は、例えば運動や集団行動などで盛り上げようとしても、敵がわからないから、まずまとまらないそうだ。日本の若者は全体的に総ひきこもりモードと言えるらしい。

 ひきこもりとは、そもそも人と会わないという「状態」であって「病名」ではない。例えば青色発光ダイオードを発明した中村修二博士も、学生時代の半年間引きこもって本ばかり読んでいたそうだ。この時期がなかったら、世紀の大発明もなかったとご本人でも言われているそうだ。
 爆笑問題の太田さんも、高校時代は自称・ひきこもりだったそうだ。友達がいなくて、ずっと話しかけられるのを待っているうちに、友達ができないかもと思い始め、そのうちに自分で友達がいないというキャラクターを作ってしまって、小説ばかり読みふける毎日だったという。だがそのおかげで内なる世界が広がったという。したがって太田さんは、ひきこもりを悪い事とは思わず、むしろそこから生まれるものはたくさんあるんじゃないかと主張する。

 斉藤先生はいう。ひきこもりは内面を深める環境としては必要なものだとは思う。だが、現実にひきこもっている若者の8割は、実は何もしていないのだと。本も読まない。ネットもしない。1日中横になっている。ただ座ってボーっとしている。そしてそんな何もしていない自分に自己批判、自己否定を繰り返している。「俺が何かするなんてとんでもない。」 彼らはプライドが高いかわりに自信がないのが特徴だという。
 私のようにネット中毒になって好き勝手に遊んでいる人は、まだマシな方なのかもしれない。ただ自己否定するだけの毎日・・・どんなに苦しいことだろうか。考えただけで涙が出そうになる。
 先生がまずそのような若者に言うのは、「できるところからしてごらん。」例えば読書とか映画とか、自分の趣味からすすめているそうだ。そう言われても何もしたくないのに・・・と思う私はうつ病だからかもしれない。とは言え、私は最近とりあえず歌やパズルで時間をつぶしているが、それでも何かしているだけいいのかもしれない、と自分で納得してみる。

 フロイトによる精神分析的には、自己愛の一番原始的で幼稚な形が「自分が好き」という状態である。それから母、家族、友達、そして他人と、だんだん多くの自己対象と出会い、それらを取り込んで相手の機能を自分のものにしていくことで、自分自身も鍛えられるらしい。
 自己愛は一生をかけて発達していくものである。逆に言えば

人生とは自己愛の成熟の過程である。

 ひきこもりによって他者との出会いが全くないということは、幼い自己愛から抜け出しきれず、自己愛も幼稚なまま止まってしまうことであり、そこが問題なのだそうだ。
 これは意外だった。自己愛は大人になるまでに完成するものだと思っていた。一生をかけて発達するのだとすると、大人になってからのひきこもりも問題ではないか。確かに今の私は、他人との接触を避け自分の世界でしか生きていない。そのせいか自分の事しか考えていない。他人の目を異常に気にしているようだが、実はそれは自分を守りたいからに他ならない。自己愛の正しい成熟が止まってしまっているということなのだろうか。この先がとても恐くなってきた。(でもたぶん私の場合は、先に「うつ病」を治さないといけない。)

 最後に、斎藤先生が思う「心の病が治る」という事について、メモしておく。
 精神医学に対する誤解の1つに「カルト(宗教的崇拝)とどこがちがうんだ?」という誤解があるそうだ。「カルト」は人の心を型にはめて楽にする、いわばマインドコントロールであるのに対して、「精神医学」は型をもっていない。精神医学の目標は
  • 心を解放すること
  • 心の多様性を回復すること
  • 心の自由度を回復すること
によって、自分で結論を出せる状況にもっていってあげる事だそうだ。そしてそうできるようになる事が「心の病が治った」状態なのだそうだ。
 そういえば私の中には、いつも答えは2つしかない事に気が付いた。0か1か。白か黒か。そうか、だから苦しいのか。心の多様性、心の自由度、なんだかとても不思議な言葉に聞こえる。自分で結論を出す?誰かに決めてもらったらダメなの?逃げたり消えたりするのは答えにならないの?なんと難しい事なのだろう。