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2007.11.12 Mon 11:54 |
課外授業~ようこそ先輩~ |
テレビ・ラジオ
昨夜、「課外授業~ようこそ先輩~」という番組を見た。『聞く力は生きる力』というテーマで、先生は医師の鎌田實先生だった。生徒は小学6年生の東京の子供達。
鎌田先生は、「最後の最後まで見捨てない医療」を掲げ、常に患者の声に耳を傾けてきた先生である。人の話を聞くということが、自分の人生を変えることもあるとか、生きる力になることもあるということに、子供達に気づいて欲しいと言う。
まず鎌田先生は子供達に、患者さんの話を否定的に聞いたり、カルテばかり見て無視したりする「悪いお医者さんの例」を見せた。いるいる。こういう先生たまにいる。そういえば昔、会社の診療所の若い先生が、パソコン画面のカルテ入力に夢中でちっとも診察をしてくれず、友人の間でも不評だったことを思い出した。
逆に良い医者とはどんな先生か?鎌田先生が例を示す。患者の話をよく聞いてくれて「つらそうだね」と共感してくれる。まじめに受け止めてくれる。それによって患者にも信頼感が生まれる。またその人がいる事によって救われる事もある。そんなお医者さんが「良いお医者さん」だ。
鎌田先生は若い頃、脳卒中の患者さんの命を救って「なんで助けたんだ」と怒られた事があったらしい。その患者さんは麻痺で大好きな農作業ができなくなって辛くなったという。「僕が助けたんだ」と充実感すら感じていた先生は、医療とは病院だけで終わるものではないと愕然としたという。
先生はまた、癌の末期の患者さんに口癖で「頑張ってくださいね」と言ったら、患者さんに泣かれてしまった事もあったという。「私は今まで頑張って頑張ってきました。これ以上もう頑張れません」と言われたのだという。その時「頑張ってくださいね」ではなく、その人の身になって「頑張ってるね」と認めてあげるべきだったと気づいたという。
鎌田先生と子供達は課外授業として近所の老人福祉施設へ、16年前脳卒中で倒れ、それ以来左半身麻痺でリハビリを続けている84歳の桜井さんという女性のお話を聞きに出かけた。
それまで仕事で海外を飛び回って活躍していた桜井さんは、突然の不幸に3年間泣き続けたと言う。ではなぜ前向きに生きれるようになったのか?それは周りにいた人が、「あなたは何もできないから役にたたないから要らないわ」と言わなかったからだそうだ。人間って意地悪な人ばかりではない。優しい人が多いと思えるようになったからだそうだ。
半身不随の今、桜井さんの目標は『もっと楽しく毎日を生活できること』だそうだ。「今日だって、こんなに突然みんなが来てくれて、お話聞いてくれただけでも私はありがたいと思って嬉しいのよ。ありがとう。本当にありがとう。」お話を聞かせてもらってお礼を言うのは子供達の方なのに、全部聞き終わったときに桜井さんが言ってくれたのが「聞いてくれてありがとう」だった。
聞くということは、聞いてもらうという事は、喜び、嬉しい、生きててよかったという事につながると言う。「生きてるって双方向なんだな」とおっしゃった鎌田先生の言葉が印象的であった。
それから老人福祉施設でも、末期癌のホスピス棟でも、誰も「ごめんなさい」なんて言ってなかった。みんなが「ありがとう」と言っていた。いい言葉だなと思った。
だから私も言いたくなった。最後まで読んでくれてありがとう。
鎌田先生は、「最後の最後まで見捨てない医療」を掲げ、常に患者の声に耳を傾けてきた先生である。人の話を聞くということが、自分の人生を変えることもあるとか、生きる力になることもあるということに、子供達に気づいて欲しいと言う。
まず鎌田先生は子供達に、患者さんの話を否定的に聞いたり、カルテばかり見て無視したりする「悪いお医者さんの例」を見せた。いるいる。こういう先生たまにいる。そういえば昔、会社の診療所の若い先生が、パソコン画面のカルテ入力に夢中でちっとも診察をしてくれず、友人の間でも不評だったことを思い出した。
逆に良い医者とはどんな先生か?鎌田先生が例を示す。患者の話をよく聞いてくれて「つらそうだね」と共感してくれる。まじめに受け止めてくれる。それによって患者にも信頼感が生まれる。またその人がいる事によって救われる事もある。そんなお医者さんが「良いお医者さん」だ。
鎌田先生は若い頃、脳卒中の患者さんの命を救って「なんで助けたんだ」と怒られた事があったらしい。その患者さんは麻痺で大好きな農作業ができなくなって辛くなったという。「僕が助けたんだ」と充実感すら感じていた先生は、医療とは病院だけで終わるものではないと愕然としたという。
先生はまた、癌の末期の患者さんに口癖で「頑張ってくださいね」と言ったら、患者さんに泣かれてしまった事もあったという。「私は今まで頑張って頑張ってきました。これ以上もう頑張れません」と言われたのだという。その時「頑張ってくださいね」ではなく、その人の身になって「頑張ってるね」と認めてあげるべきだったと気づいたという。
聞くことの一番の目的は、『相手を理解すること』である。理解できなくとも『理解しようとすること』である。
鎌田先生と子供達は課外授業として近所の老人福祉施設へ、16年前脳卒中で倒れ、それ以来左半身麻痺でリハビリを続けている84歳の桜井さんという女性のお話を聞きに出かけた。
それまで仕事で海外を飛び回って活躍していた桜井さんは、突然の不幸に3年間泣き続けたと言う。ではなぜ前向きに生きれるようになったのか?それは周りにいた人が、「あなたは何もできないから役にたたないから要らないわ」と言わなかったからだそうだ。人間って意地悪な人ばかりではない。優しい人が多いと思えるようになったからだそうだ。
半身不随の今、桜井さんの目標は『もっと楽しく毎日を生活できること』だそうだ。「今日だって、こんなに突然みんなが来てくれて、お話聞いてくれただけでも私はありがたいと思って嬉しいのよ。ありがとう。本当にありがとう。」お話を聞かせてもらってお礼を言うのは子供達の方なのに、全部聞き終わったときに桜井さんが言ってくれたのが「聞いてくれてありがとう」だった。
聞くということは、聞いてもらうという事は、喜び、嬉しい、生きててよかったという事につながると言う。「生きてるって双方向なんだな」とおっしゃった鎌田先生の言葉が印象的であった。
それから老人福祉施設でも、末期癌のホスピス棟でも、誰も「ごめんなさい」なんて言ってなかった。みんなが「ありがとう」と言っていた。いい言葉だなと思った。
だから私も言いたくなった。最後まで読んでくれてありがとう。
ブログに包み隠さず自分の依存体質について書いてきた。母親の顔色を伺いながら生きている「アダルトチルドレン」かもしれないという事も書いてきた。恐怖や絶望を感じた時にはここにソレを書くことで少し気分が落ち着いたし、コメントや拍手で同じような事で悩んでいる人がいるんだなと思えるようになり、そういう自分を受け入れる事ができそうな気もしてきた。
でもふと不安が頭をよぎる。いつかここが見つかったらどうしよう。
小さい頃から、私はずっと日記をつけていた。ある日両親が大喧嘩をした。子供の私から見たら、母が一方的に父をなじっているように見えた。何も言い返さない父を見て、私はその日の日記に「パパがかわいそう」と書いた。
すると次の日の夜、母の様子が変だった。私はよくわからないなりに一生懸命母のご機嫌を取っていたが、それでも母に笑顔がなかった。いつも優しい母が、目も合わせてくれなかった。仕方なく部屋にこもって横になっていたら、母が突然ドアをバタンと開けてどなり始めた。「日記たまたま見たんだけど、パパがかわいそうってアレなによ!ママがどれだけひどい目にあってるかも知らないで!もうあなたはママの子じゃないわ!もう知らない!勝手にしなさい!」
私は震え上がった。何が何だかわからなかった。日記を勝手に読まれた事への不満とか、そんな事はどこかへ言ってしまうほど、母に見捨てられるのが怖かった。それから私はひたすら母に「ごめんなさい」を言い続けた。泣きながら言い続けた。それでも母は許してくれなくて、私はついに声が出なくなってしまった。
それを見ていた姉が、母に「ぐりえちゃんがかわいそうじゃないの。ママのせいで話せなくなっちゃってるのよ!」と擁護してくれていたのを、遠い世界の事のように聞いていた。母は姉となにか言い争っていたが、私を許す気配はないようだった。
2日ぐらい経っただろうか、私は少しずつ喋ることが出来るようになり、また「ごめんなさい」を繰り返した。母は相変わらず私の事を無視しつづけたが、怒鳴るようなことはなくなっていた。少しずつ許してくれているのだろうか。私は無視されても無視されても、母の後をついて歩いた。
そして夜、母の布団にもぐりこんで背中にしがみついた。母は拒まなかった。私はかすれる声を振りしぼって「ぐりえはママのことが好きなの」と泣きながら言った。その時やっと母は私をふりかえって、ぎゅっと抱きしめてくれたのだった。私は声の限りを尽くして泣いた。
あの夜の事は、今でも昨日のことのように覚えている。大人になって冷静に考えると、あれが「条件付きの愛」を自覚した瞬間だったのだろう。自分の意見を曲げてでも、必死についていかなければ愛されない。そう学んだ瞬間だったのだろう。
いつかここが見つかったらどうしよう。
でもふと不安が頭をよぎる。いつかここが見つかったらどうしよう。
小さい頃から、私はずっと日記をつけていた。ある日両親が大喧嘩をした。子供の私から見たら、母が一方的に父をなじっているように見えた。何も言い返さない父を見て、私はその日の日記に「パパがかわいそう」と書いた。
すると次の日の夜、母の様子が変だった。私はよくわからないなりに一生懸命母のご機嫌を取っていたが、それでも母に笑顔がなかった。いつも優しい母が、目も合わせてくれなかった。仕方なく部屋にこもって横になっていたら、母が突然ドアをバタンと開けてどなり始めた。「日記たまたま見たんだけど、パパがかわいそうってアレなによ!ママがどれだけひどい目にあってるかも知らないで!もうあなたはママの子じゃないわ!もう知らない!勝手にしなさい!」
私は震え上がった。何が何だかわからなかった。日記を勝手に読まれた事への不満とか、そんな事はどこかへ言ってしまうほど、母に見捨てられるのが怖かった。それから私はひたすら母に「ごめんなさい」を言い続けた。泣きながら言い続けた。それでも母は許してくれなくて、私はついに声が出なくなってしまった。
それを見ていた姉が、母に「ぐりえちゃんがかわいそうじゃないの。ママのせいで話せなくなっちゃってるのよ!」と擁護してくれていたのを、遠い世界の事のように聞いていた。母は姉となにか言い争っていたが、私を許す気配はないようだった。
2日ぐらい経っただろうか、私は少しずつ喋ることが出来るようになり、また「ごめんなさい」を繰り返した。母は相変わらず私の事を無視しつづけたが、怒鳴るようなことはなくなっていた。少しずつ許してくれているのだろうか。私は無視されても無視されても、母の後をついて歩いた。
そして夜、母の布団にもぐりこんで背中にしがみついた。母は拒まなかった。私はかすれる声を振りしぼって「ぐりえはママのことが好きなの」と泣きながら言った。その時やっと母は私をふりかえって、ぎゅっと抱きしめてくれたのだった。私は声の限りを尽くして泣いた。
あの夜の事は、今でも昨日のことのように覚えている。大人になって冷静に考えると、あれが「条件付きの愛」を自覚した瞬間だったのだろう。自分の意見を曲げてでも、必死についていかなければ愛されない。そう学んだ瞬間だったのだろう。
いつかここが見つかったらどうしよう。
2007.11.12 Mon 00:30 |
DREAMS COME TRUE |
音楽
愛をもらった。ネット上の女友達にたくさん愛をもらった。何か特別な事をしてもらった訳でもない。他愛のない近況報告をしあうだけで、お互いにツッコミ入れて笑うだけで、「それでいいんじゃない?」って言ってもらうだけで、「ブログ見てるよ」と励ましてもらうだけで、肩の重荷がスーッと薄れていくような感覚をもらった。みんなが揃って当然という時には、気が付かなかった事だった。
たまにでいいから、またみんなでお話ししよう。やっぱり持つべきものは女友達だと思った。笑って泣いた。
たまにでいいから、またみんなでお話ししよう。やっぱり持つべきものは女友達だと思った。笑って泣いた。
来てくれて良かった
いてくれて良かった
今日はホント・・・サンキュ。(by 吉田美和)
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