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2007.11.28 Wed 14:01 |
爆笑問題のニッポンの教養 |
テレビ・ラジオ
※このページには「動く錯視」(静止画なのに動いて見える錯視)が含まれています。車酔いなどを起こしやすい方はご注意下さい。
昨夜の「爆笑問題のニッポンの教養」は、なかなか興味深いお話であった。「この世はすべて錯覚だ」というテーマで、知覚心理学の北岡明佳教授を訪ねての対談であった。心理学が絡むと、相変わらず途中から爆笑問題の太田さんの暴走は止まらなかった。
まずコレを見ていただきたい。
北岡先生が作った錯視デザイン作品 「蛇の回転」 静止画である。

私にはこれがグルグル回って見える。回りすぎで酔いそうだ。このような目の錯覚の事を、「錯視」というそうだ。「錯視」は心理現象なので個人差が大きいそうで、20人に1人ぐらいは動いて見えない人がいるそうだ。性格が違うとか、知能がちがうとか、そういう事は全くないそうなので、動いて見えなくても安心してほしい。
錯視のメカニズムはほとんどわかっていないが、わかっているものもあるそうだ。
例えばこの「踊るハート達 3」 これは動画だが、同じ位置にあるはずのハートが動いて見える。これは「コントラストが高い所は脳内情報処理が速い」、逆に「コントラストの低い所は脳内情報処理が遅い」事を利用した錯視である。つまりコントラストの低い所(色が似ている所)は点滅の速さに比べて処理が追いつかずに、ズレて認識されてしまい、ハートが動いて見える訳だ。

我々はみな、いま現在の物が見えていると思っているが、実は大脳は刺激を受けてから処理に100[ms](1/10秒)もかかっていて、パソコンが1~2秒間に数十億回演算処理できるのに対して、脳は最速でも1,000回しか動かないのだそうだ。さらにその後の処理もあるし、色によっても時間差がある。
したがって我々が物を見る時、脳は目から得た特定の手がかりを元に、パッと見て、だいたい正しければOKと判断するトリックを使っている。例えば、果物などある物体を見た時には、それらを単純化した図形で捕らえているのだ。こうした脳のトリックが、錯視を引き起こす原因になっていて、この種の錯覚は、我々の日常生活の中でも、常に起きていることになる。
錯視の例としてはまた、有名な「ミュラー・リヤー錯視」という幾何学的錯視がある。誰もが一度は見たことがあると思う。同じ長さの線分の両端に矢羽を付けた場合、内向きに付けると線分は短く見え(上図)、外向きに付けると線分は長く見える(下図)。錯視量が非常に多い大きさの錯視である。
この絵に、太田さんが、最近自分が考えている悩みをぶつけ始める。なんでもイメージで決め付けられてしまう話、我々は何でもイメージで捉えてしまいそこから逃げられないんじゃないかという話、だけどそんな自分を許してやってもいいじゃないかという話、結局見ているものは全部自分自身の反映なのではないかと思ってしまう話。毎回この番組を見ている人には、おなじみの太田さんの悩みである。
上述の2本の線でも、> <や< >があるから、線の長さが違ってみえる。このように錯視を誘導する図形の事を「文脈」と呼ぶ事もあるそうだ。つまりは先入観のこと。人間は「こうなるはずだ」という自分の心の構造にあわせて物事の知覚や認識をしているのだから、ある意味見た物への認識はみな自分に依存しているという考え方は正しい、と先生は言う。
我々は経験と知識と知覚によって、本当の物は何かを計っている。パッと見てその知覚を本当だと思えば、それは自分にとって本当のもの。たとえ真実とその知識にズレがあっても、そう見えたならその人その人にとってはその認識が真実であるわけで、それは人間として仕方のないことであって、そこから逃れることはできないのだ。
すると太田さんが、そんな自分から逃げたいと言う。もっと自分を客観視したいと言う。自分が思ってる客観は本当の客観ではないのではないか、と自問自答を繰り返すと言う。
この辺の考え方、すごくわかる。なんでも自分の価値観で決め付けてしまう自分、自分の中に出来上がっているイメージで物事を見てしまう自分が許せないのだ。先生の言葉を借りると「我々はそんなに、文化的な環境、社会的な環境、自分が育ってきた環境から、自由にはなれない」事に気づいてしまい、そんな環境から逃げ出したいのだ。もっと自由になりたいのだ。微笑んでながめつつ心理分析していく北岡先生は、まるで心理カウンセラーのようだった。
今回、北岡先生の「錯視デザイン」をいくつか見て、少しは『自分の考え方が全て真実というわけではない』という気持ちが芽生えてきた。というか、理屈ではわかってきた。だがまだ、「失敗を繰り返してしまう自分」を許してあげようとまでは思えない。自分を許すことができたとき、本当に自分の事を好きになることができるのであろう。頭では理解できるのだが・・・・。
許すべきか、許さざるべきか。そんな私の自問自答は、今夜も続きそうだ。
全ての画像は「北岡明佳の錯視のページ」様より、個人のサイトに限った条件で転載を許可されているものです。本ページからの転載はおやめください。
昨夜の「爆笑問題のニッポンの教養」は、なかなか興味深いお話であった。「この世はすべて錯覚だ」というテーマで、知覚心理学の北岡明佳教授を訪ねての対談であった。心理学が絡むと、相変わらず途中から爆笑問題の太田さんの暴走は止まらなかった。
まずコレを見ていただきたい。
北岡先生が作った錯視デザイン作品 「蛇の回転」 静止画である。

私にはこれがグルグル回って見える。回りすぎで酔いそうだ。このような目の錯覚の事を、「錯視」というそうだ。「錯視」は心理現象なので個人差が大きいそうで、20人に1人ぐらいは動いて見えない人がいるそうだ。性格が違うとか、知能がちがうとか、そういう事は全くないそうなので、動いて見えなくても安心してほしい。
錯視のメカニズムはほとんどわかっていないが、わかっているものもあるそうだ。
例えばこの「踊るハート達 3」 これは動画だが、同じ位置にあるはずのハートが動いて見える。これは「コントラストが高い所は脳内情報処理が速い」、逆に「コントラストの低い所は脳内情報処理が遅い」事を利用した錯視である。つまりコントラストの低い所(色が似ている所)は点滅の速さに比べて処理が追いつかずに、ズレて認識されてしまい、ハートが動いて見える訳だ。

我々はみな、いま現在の物が見えていると思っているが、実は大脳は刺激を受けてから処理に100[ms](1/10秒)もかかっていて、パソコンが1~2秒間に数十億回演算処理できるのに対して、脳は最速でも1,000回しか動かないのだそうだ。さらにその後の処理もあるし、色によっても時間差がある。
したがって我々が物を見る時、脳は目から得た特定の手がかりを元に、パッと見て、だいたい正しければOKと判断するトリックを使っている。例えば、果物などある物体を見た時には、それらを単純化した図形で捕らえているのだ。こうした脳のトリックが、錯視を引き起こす原因になっていて、この種の錯覚は、我々の日常生活の中でも、常に起きていることになる。

この絵に、太田さんが、最近自分が考えている悩みをぶつけ始める。なんでもイメージで決め付けられてしまう話、我々は何でもイメージで捉えてしまいそこから逃げられないんじゃないかという話、だけどそんな自分を許してやってもいいじゃないかという話、結局見ているものは全部自分自身の反映なのではないかと思ってしまう話。毎回この番組を見ている人には、おなじみの太田さんの悩みである。
上述の2本の線でも、> <や< >があるから、線の長さが違ってみえる。このように錯視を誘導する図形の事を「文脈」と呼ぶ事もあるそうだ。つまりは先入観のこと。人間は「こうなるはずだ」という自分の心の構造にあわせて物事の知覚や認識をしているのだから、ある意味見た物への認識はみな自分に依存しているという考え方は正しい、と先生は言う。
我々は経験と知識と知覚によって、本当の物は何かを計っている。パッと見てその知覚を本当だと思えば、それは自分にとって本当のもの。たとえ真実とその知識にズレがあっても、そう見えたならその人その人にとってはその認識が真実であるわけで、それは人間として仕方のないことであって、そこから逃れることはできないのだ。
すると太田さんが、そんな自分から逃げたいと言う。もっと自分を客観視したいと言う。自分が思ってる客観は本当の客観ではないのではないか、と自問自答を繰り返すと言う。
この辺の考え方、すごくわかる。なんでも自分の価値観で決め付けてしまう自分、自分の中に出来上がっているイメージで物事を見てしまう自分が許せないのだ。先生の言葉を借りると「我々はそんなに、文化的な環境、社会的な環境、自分が育ってきた環境から、自由にはなれない」事に気づいてしまい、そんな環境から逃げ出したいのだ。もっと自由になりたいのだ。微笑んでながめつつ心理分析していく北岡先生は、まるで心理カウンセラーのようだった。
今回、北岡先生の「錯視デザイン」をいくつか見て、少しは『自分の考え方が全て真実というわけではない』という気持ちが芽生えてきた。というか、理屈ではわかってきた。だがまだ、「失敗を繰り返してしまう自分」を許してあげようとまでは思えない。自分を許すことができたとき、本当に自分の事を好きになることができるのであろう。頭では理解できるのだが・・・・。
許すべきか、許さざるべきか。そんな私の自問自答は、今夜も続きそうだ。
全ての画像は「北岡明佳の錯視のページ」様より、個人のサイトに限った条件で転載を許可されているものです。本ページからの転載はおやめください。
2007.11.28 Wed 11:09 |
うつ病(鬱病)、メンタルヘルス |
心と身体
昨夜ブログを書いてから、しばらくネットサーフィンをし、いい加減に眠くなってきたかなと思えた頃に、ぬるいお風呂に入った。午前3時ごろだったであろうか。そうしたらソレは眠くなってきたなんてもんじゃなかった。私はお風呂で寝てしまった。意識を失っていたと言ってもいい。それも仰向けならよかったのだが、小さなユニットバスでは体育座りのような姿勢。次第に首が前に倒れてきたらしい。気づいたら顔が水に浸かっていて、溺死寸前であった。あと少しだったのに、残念だった。
お風呂での溺死事故は、意外と多いらしい。普通の人(?)は危ないので、お風呂のフタを半分しておくと溺死防止になるらしいので、一応お知らせまで。
「溺れる」と言えば。
突然話は変わるように思われるかもしれないが、まあ聞いて欲しい。最近になって『スキマスイッチ』の歌詞がイイ事に気が付いたのだ(おそっ)。曲もイイのだが、歌詞をよくよく聴いてみるとなかなかである。奥が深いというより、切ない気持ちをストレートな言葉で綴っている感じであろうか。それがボーカル大橋卓弥のこれまたストレートな声に実によく合っている。興味を惹かれて、私は色々とYouTubeサーフィンをしていた。
そこで発見した歌。「マリンスノウ」
彼らの言葉を借りれば、私はここ何年も「深い意識の淵」を漂っている。何度か、上から差し込む光が見えた時もあった。誰か見えたような気がして、引き寄せられるように、水面から顔を出そうとしたこともあった。でもそれはみんなみんな幻だったようだ。私はその度に孤独の寒さに気づかされ、1枚1枚上着を増やしていく。ますます、泳げない重い体になっていくようだ。
お風呂での溺死事故は、意外と多いらしい。普通の人(?)は危ないので、お風呂のフタを半分しておくと溺死防止になるらしいので、一応お知らせまで。
「溺れる」と言えば。
突然話は変わるように思われるかもしれないが、まあ聞いて欲しい。最近になって『スキマスイッチ』の歌詞がイイ事に気が付いたのだ(おそっ)。曲もイイのだが、歌詞をよくよく聴いてみるとなかなかである。奥が深いというより、切ない気持ちをストレートな言葉で綴っている感じであろうか。それがボーカル大橋卓弥のこれまたストレートな声に実によく合っている。興味を惹かれて、私は色々とYouTubeサーフィンをしていた。
そこで発見した歌。「マリンスノウ」
から始まるこの歌、ある意味すごい失恋ソングだ。僕は孤独の海 放り出されて もうさ 溺れてしまうのかなぁ
とはいえ這い上がれない どうせ堕ちるなら朽ちて 深海魚のエサになれ
すごい。すさまじい。でも失恋に限らず、絶望の淵って本当にこんな感じだ。マリンスノウ Music & Lylic by スキマスイッチ (最後のサビ部分)
体がただ沈んでゆく 涙も叫びも深海がさらっていく
どうせならもう抜け殻になってしまえば
ずっとこのまま時間を超えて 深い意識の淵漂っていられたら
僕は一人 ここで生まれ変われるのかなぁ
君のいない海で生きていこうとしたけど 想い出の重さで 泳げない
彼らの言葉を借りれば、私はここ何年も「深い意識の淵」を漂っている。何度か、上から差し込む光が見えた時もあった。誰か見えたような気がして、引き寄せられるように、水面から顔を出そうとしたこともあった。でもそれはみんなみんな幻だったようだ。私はその度に孤独の寒さに気づかされ、1枚1枚上着を増やしていく。ますます、泳げない重い体になっていくようだ。

今日はキッチンで、高い所にしまってあった鍋を取ろうとして台に乗っていたら、一瞬ボーっとして台から落ちてしまい、尾てい骨をモロに床に打つと同時に、後頭部を後ろの棚にゴンと打ってしまった。高齢者だと、家の中の転倒で死亡事故になることもあるという。
私がよく転ぶ女であることは、友人ならよく知っている話だ。それにしても最近、家の中でよく転ぶ。ヒキコモリなのにアザだらけ、満身創痍だ。足腰を鍛えていないからだろうか。きっと集中力もないのだろう。危機感も緊張感もないのだろう。それとも、もう若くもないということか。
そういえば以前、会社の先輩が、お昼休みに雨に塗れたタイルで滑って、スッテーンと後頭部を打ってしまった。「だ、だいじょうぶですか」と心配しつつも、みんなが思わず笑ってしまうような見事な転びっぷりだった。先輩は痛がっていたが、「大丈夫!」と普通に食堂へ向かったので、みんなも「気をつけてくださいね。」と、その件はそれで終わったかに見えた。
そのままいつものように同じテーブルでランチを食べていたら、その先輩がとても怪訝そうな顔をしている。「なんで僕ここにいるんだっけ?」「今日って金曜日?」と、小声で私に何度も何度も聞いてくる。最初はふざけているのかと思って「さっき転んだことも覚えてないんですか?」などと、ツッコミながら笑っていたが、あまりにも真面目に何度も聞いてくるので、これは大変だということになり、慌てて病院に連れて行くことになった。車を手配している間も、「僕なんで病院に行くんだっけ?」と聞く先輩。何度も聞く質問に関しては、紙にQ&Aを書いて持たせる事にした。
検査の結果、特に脳に異常はなく、転倒の衝撃で脳みそが揺さぶられて(?)一時的に短期記憶障害が出ているのではないかという事だった。時間を置けば治りますよ、と帰されてきたが、相変わらず先輩は「僕ころんだの?」と不思議そうな顔。
翌週、元気に出社してきた先輩は、「いやぁ金曜日は失礼しました。」とすっかり元通りになっていた。だが、転んだ前後の記憶は全くないらしい。人間って不思議だ。
思えば、私も忘れたいことばかりだ。今日頭を打った時に、今までの楽しかった幸せな思い出を、全て忘れてしまえばよかったのにと思った。
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