だが今、馬場さんの歌に励まされている30代から40代の大人たち大勢いるという。転職、離婚、子育て、うつ、不妊・・・家族にも誰にも言えない人生の悩みや苦難をかかえる様々な人々が、泣きながら馬場さんの歌を聞いているのだそうだ。
番組では、前に「爆笑問題のニッポンの教養」にも出てきた精神科医の斉藤環先生が、馬場さんの歌の何が人々に響くのか、その歌詞を分析しておられた。するとそこには、従来のヒット曲とは違った部分が浮かび上がってきたという。
特に、ヒット曲『スタートライン』の歌詞には2つのキーワードがあると、斎藤先生は言う。いい意味でメッセージ性が希薄である。絶対にこれを伝えたいとか、強い主張で説得してみせようとか、そういう強いメッセージ性がない。控えめに自分の姿勢をそっと差し出すような感じで、自分を大事にしようと思っている、そういう気持ちを聞き手にも伝える事ができる。
斎藤先生によれば、馬場さんの歌には、何を信じろとは書いていない。例えば「自分を信じなさい」だとありきたりすぎて心に沁みないが、何も示さずにただ「信じる」という行為自体を肯定しているのが特徴的なのだそうだ。さらに、「信じていれば報われる」とか「いい事がある」とか「素晴らしい未来がある」とも言っていない。どんなときも「信じる」ことをやめないで
真心が何かに「変わる」んだよ
それにも関わらず、これを聞くと自分が肯定されている、励まされているような感じになるのは、もう一つのキーワード「変わる」のおかげだと言う。こちらも、「特にすばらしい人に変わる」とか「強い自分に変わる」とか、一言も書いていない。やり直して何かを『信じる』とによって、『変化』が訪れる、とだけ言っているのだ。
これは、馬場さん自身が自分の切実な状況の中で、ギリギリを突き詰めていった結果、「いい加減な紋切り型の激励の言葉では、自分を励ますことができない。」とご自身で発見したのではないかと、斎藤先生は分析する。その姿勢にみんなが感染、伝達していく。そして、変化の可能性を信じることが、自己肯定感につながっていくのだそうだ。
馬場さんの生き方を知れば、歌に深みが増してくる。「3000人も4000人も引っ張っていくなんて、自分にできるのかな?荷が重いな・・・。」と照れたように言う謙虚な馬場さん。いつまでも変わらないで欲しい。自分の弱さを変わらぬものとして諦めるのではなく、弱いことを受け入れた上で、その先の変化を追い求めていく。もがきながら、それでも変わる可能性を信じている。
人間というのはそんなに常に大きな物語を必要としているのではなくて、身の回りの小さな物語を大切に生きることでも幸せに生きていくことはできるんだと、馬場さん自身が身をもって示している。そういうところに人々は共感をもてるのではないか。
今夜の紅白歌合戦が楽しみである。きっと私は泣いてしまうであろう。
これは私が半年ほど前に、mixiの日記に、当時の自分の状況と理想の将来像を、童話という形を借りて書いたものだ。ある友は訳がわからなかったようで「どこか違う世界へいっちゃった?」とコメントし、ある友は「だったら私は、狼のお腹を裂いてぴーちゃんを助ける!」とコメントしてくれた。
あるところに小鳥のぴーがいました。
ぴーは誰よりも飛ぶのを早く覚え、誰よりも遠くまで飛んで行っては隣町の話を楽しく話してきかせるので、小鳥たちの人気者でした。
ある日嵐がやってきました。それでもぴーはどうしても、隣町の隣の隣のそのまた隣の町まで飛んでみたくてしかたがありません。「やめなよ!」「あぶないよ!」仲間は口々にぴーに言いましたが、ぴーは「だいじょうぶ」と嵐の中を力いっぱい飛び立ちました。
けれども隣町を過ぎたあたりで、あんのじょう突然大きな風がふいて、ぴーは真っ逆さまに暗い森の中に落ちてしまいました。「痛いよう。」どうやら叩きつけられたはずみで、ぴーの自慢の羽は折れてしまったようです。ぴーはしばらくぴーぴー鳴いていましたが、嵐でその声もかき消されてしまったのか、だれも迎えにはきてくれませんでした。
次の日、遠くのほうから楽しげなさえずりの声が聞こえてきました。ぴーが声のするほうへヨチヨチ歩いていってみると、渡り鳥たちが水浴び場でとても楽しそうに遊んでいました。
ぴーが木の陰から覗いていると渡り鳥の一羽がぴーを見つけて「一緒に遊ぼうよ。」と声をかけてくれました。ぴーは嬉しくなって、時間も経つのも忘れて、みんなと一緒に遊びました。次の日もその次の日も渡り鳥たちと遊びました。
それから何日かたつと、渡り鳥のリーダーが言いました。「さあそろそろ出発だ。」ぴーは「どこへいくの?」と聞きましたが、リーダーはぴーのボロボロの羽を見て、「お前には無理だな。」と一言言い残して飛んでいってしまいました。リーダーを追うように次々と飛び立ってしまう渡り鳥たち。
「まってー!」ぴーはありったけの声で叫びながら、動かない羽を懸命に動かして、何とか飛ぼうと暴れました。最初に声をかけてくれた渡り鳥だけが最後まで残って、いつまでもバタバタもがいているぴーに言いました。「ここらに生えている薬草を食べていればいつか羽は治るから、そうしたら仲間のところへお帰りよ。」そして名残惜しそうに、彼も飛んでいってしまいました。
ひとりぼっちになってしまったぴーは、最初にここへ来たときのようにしばらくぴーぴー鳴いていましたが、次第に声が枯れてしまい、鳴きつかれて寝てしまいました。
次の日からぴーは、渡り鳥に言われたとおり一生懸命に薬草を食べました。食べられるだけ食べました。次の日もその次の日も薬草を食べました。気が付くとぴーはブクブクに太ってしまい、もう飛べないほどの重たい体になっていました。それでもぴーは一生懸命に薬草を食べました。月日はたち、冬がやってきました。とても寒い寒い冬でした。
ぴーがいつものように薬草を食べていると、そこへ痩せっぽちのハラペコ狼がやってきました。「ああ、お腹が空いて死にそうだ。ここ3日間も何も食べていないんだ。」それを聞いたぴーは、狼の前へヨチヨチと歩いていって、こう言いました。「どうぞ私を食べてください。私はそのためにここであなたを待っていたのです。」
狼は「おお!ありがたい。お言葉に甘えていただくよ。」そう言って狼は、ぴーを食べました。ぴーはとても幸せでした。
単純に見えて、実は本当にいろいろな要素が含まれている童話なのだ。いろいろと私の深層心理を推し量っていただければ幸いである。
原文となった日記を削除してしまったので、ここへ書き残しておく。
そして先ほど大掃除をしようとキッチン周りを片付けていたら、すごいことに気が付いた。前記事ではまったく虫が捕まらないと書いた「ちびっこホイホイ
私は「ゴメンネ」と言いながらも、ちびっこホイホイと幼虫達をごっそり燃えるゴミに捨てた。ちょっとした達成感。
そのオフ会の中で、「またみんなで一緒にMMO(オンラインゲーム)をやりたいね」という話が出たそうだ。私はどうだろう。楽しかった頃を思い出すと、またあの頃に戻りたいなあと思う反面、もうMMOはコリゴリという気持ちもかなり強い。
これまでのMMOでも、いわば空想世界の生活であるにも関わらず、私は全く違う自分を演じきる事はできなかった。次にまた別のゲームを始めたとしても、私はきっとその世界の中で、また同じようにひとりぼっちを好むだろう。そのうち寂しくなって居場所を求め、誰かを頼り、誰かに依存するであろう。新しい人間関係を作るのはもう嫌だ。悲しく辛い目に合うぐらいなら、初めから仲良くなんかなりたくない。
ゲームにそんなドロドロしたものを持ち込むなと思われるかもしれないが、これが本来の私なのだ。どうしようもない。
やっぱり自分は誰にも求められていない。これは間違いない。いてもいいかもしれないが、いなくてもいいんだ。どちらかというと、ほとんどの人にとっていなくてもいいんだ。
いや、それは別に私だけではなく、生きとし生けるもの全て、いてもいなくてもいい存在なんだ。いざとなれば、代わりはいくらでもいる。それでもみんな、自分だけは生き残ろうと、もしくは子孫を残そうと、でなければ何でもいいから自分の生きていた証を残そうとして、一生懸命に生きているだけなんだ。自分の中で『どうしても生きていたい』という、動物としての本能みたいなものがあるかないかだけの問題なのだ。
少なくとも今の私に、『どうしても生きていたい』とか『死にたくない』という気持ちは、これっぽっちもない。病気で死にゆく人、事故で死にゆく人、自殺で死にゆく人、みなさんこんな贅沢言ってごめんなさいね。でも、本当にそうなのだ。代われるものなら代わってあげたいとしか、言いようがない。
本当に死ぬ間際にでもなったら、今こんな事を言っている自分に、後悔の念を感じるのだろうか。「あなたはまだ若い。なんでもできるじゃないの。」とでも思うのだろうか。未来の自分に謝っておこう。ごめんなさい。そして過去の自分にもごめんなさい。
なんだかとても、疲れている。
私も、昔から文章を書くのが好きで、漠然と「作家になりたいなー」と思ったりした事もあった。「作家になれば?」と言われるたびに有頂天になった事もあった。でも本気で目指している方々を見ると、適当にそんな事思っちゃいけないなと、恥ずかしく思う。
ところで、例の番組「ドキュメント”考える” 『ベストセラー作家 石田衣良の場合』」のミッション
であるが、mixiでは「それと同じ課題を書いてみよう」というBBSが立ち上がっていた。興味を持って作品をながめていたのだが・・・申し訳ないが、あまり心を打つ作品はなかった。もしかしたら作品を投稿された方々は、本気で自殺を考えた事がないのかなと思った。「童話」というフレーズに縛られすぎて、キレイ事の話が多いと思った。自殺願望を持つ少女が自殺をやめたくなるような童話を作れ
(番組ではさらに「ガチョウ」「光学」「草書」という言葉を含めよという追加指令もあった)
「自殺願望を持つ少女」がいるとすれば、その子は自分なりに散々悩んで、自分が知る限りの知識の中には解決方法が一つもなく、現実世界に絶望しているのだ。そこへ頑張れば夢は叶うとか言われても、余計にその子を傷つけてしまうであろう。かと言って空想的なイイ話を持ってきても、おそらく自殺願望は止まらないであろう。そういう夢のような童話は、まだ「死のうと思ったことのない」子供に「死のうと思わせないため」に読ませる本であって、もう「死のうと思ってしまった」子供の心には、たぶん響かないのだ。
それは私が、死のうと思ったことがあるから言える事である。死にたい子に必要なものは、生きる意味である。生きる希望である。どうやってそれを教えてあげればいいのだろうか。
例えば私だったら、リストラされたヨボヨボのおじさんを主人公にする。光学レンズ磨きの職人だ。コツコツと単調な仕事をマジメに一生懸命やってきたおじさんも、時の流れとともに機械に仕事を奪われて、「お前はもう必要ない。」と言われてしまった事にしよう。「早く出て行け。」と石を投げられ、罵られ、仕事場を追い出されてしまった事にしよう。
仕事一筋だったおじさんには身よりもない。生活費もない。病気も患っている。おじさんは漠然と、自分の役割は終わったと思うだろう。こうして生きる意味を見失ってしまったおじさんはふと、もういいや、死んでしまおうと思ったとしよう。
ははは。全然童話じゃないではないか。しかもこれじゃあ、中高年の自殺は止まるかもしれないけれど、少女の自殺は止まらなさそう。文章を書くのって、やっぱり難しい。いつしかおじさんは、小さい頃よく遊んだ「底なし沼」にたどりついた。ここなら死ねるだろうか。
そこへ、死後の世界から生まれ変わったばかりのガチョウが現れた。ガチョウは前世で悪い事をしたために、飛べない鳥にされてしまったのだ。でも、「オイラはまだマシだ。命をもらって嬉しいよ。」とガチョウは言う。
なぜならあの世には、生まれ変われずに苦しんでいる友がいるからだ。それは首を吊って自分で死んでしまった友だ。
神様はその友をオイオイ泣きながら叱ったという。「お前はなんと愚かな事をしたのだ。お前の悩みはあと1週間で解決されたのに。それにお前の本当の役目はこれからだったのに。」
それを聞いた友もオイオイ泣いたと言う。「早く知らせてくれれば、ボクだって死ななかったのに。どうかボクを元の世界に戻してください。」でもそれはできない決まりだった。自殺はこの世で一番悪い事なのだ。
友は今でもオイオイ泣いている。たぶんこのまま、宇宙がなくなるまでオイオイ泣き続けるのだろう。あの世には、そんなオイオイ泣いている人がゴロゴロいるという。オイオイオイオイうるさくて、夜も眠れないという。
おじさんは、「それはかわいそうに。」とつぶやく。「でもいい。それでもいい。私はもう疲れたんだ。生まれ変わらなくたっていいんだよ。」とガチョウに言う。
「バカだな。」ガチョウはしゃがれ声でおじさんに言った。「あんたはどれだけ自分が幸せなのかわかってないのかい?オイラからしてみたら人間のあんたが羨ましくて仕方がないよ。」
けれども、おじさんは悲しそうに笑うだけだった。
ガチョウは少し考えていたが、やがて首をプルプルっと振るとこう言った。「本当は言っちゃいけないって言われてたんだけど、あんたにだけは教えてやるよ。あんたはまだ死神の予定に入ってないんだよ。ってことはだよ。あんたの役目はまだ終わっちゃいないってことだ。急いで家に帰って郵便箱をのぞいてみな。」
そしてガチョウはため息をついた。「やれやれ。またオイラは神様との約束をやぶっちまった。次は蛇にでもなるのかな。」
おじさんは、もう役目とかそんな事はどうでもよかったのだが、ガチョウが「さあ、帰った帰った!」とあんまりせかすので、しぶしぶ家に戻ってみた。
郵便箱をのぞくと、そこには1枚のハガキがあった。さらさらとした流れるような草書に、おじさんは見覚えがあった。それは初恋の人の字だった。おじさんが若い頃、青春時代を一緒に過ごし、戦争のゴタゴタで行方知れずになってしまった、あの懐かしい人からの突然のハガキだった。
「突然の手紙をお許しください。私はガンで先生からあと1ヶ月の命だといわれました。覚悟はできています。死ぬことは怖くありません。でもたった一つだけ悔やんでも悔やみきれない事があります。本当にご迷惑だとは思いますが、最期にあなたに会って謝らなければ・・・」
おじさんは涙で続きが読めなかった。まだこの世の中に、自分を必要としてくれている人がいたなんて。自分に会いたいと言ってくれている人がいたなんて。その人に謝らなければならないのは自分の方だった。おじさんには、まだやり残していることがたくさんあった。
おじさんは、ありったけの小銭をかき集め、庭に咲いていた一輪の花をつんで、家を飛び出した。神様に「どうかあのガチョウに罰を与えないでください。」と祈りながら。
(キキョウの花言葉=やさしい愛情、誠実、変わらぬ愛)