涙が止まることもあります。
よけいに涙が止まらなくなることもあります。
涙が心の老廃物を外に出してくれるのなら
どんどん泣けばいいと思います。
泣いていた原因を忘れるまで
泣き続ければいいと思います。
泣きすぎて息絶えるのなら
それで死んでしまえばいいと思います。
でも泣きすぎで死んだという人を
私は今まで聞いたことがありません。
藍坊主 「泣いて」 Fan MV
泣いて Music & Lylic by 藤森真一
君の心の奥には 暗く長い迷路がある
いつからか僕はすっと迷いこんでしまっただろ
僕の目線 目下の世界 昨日まですべてを見てる気がしてた
君が悩んでいること それを仮に100としたら
僕のは見た目は100で 実はたった1か2だろ
ねぇ もう一度 走らせて 君の声 聞こえる筈のその場所へ
泣いて 泣いて 涙かれても まだだ まだだ 泣き足りない
泣いて 泣いて 声がかれても 君の痛みにかなわない
泣いて 泣いて すべて涙が 洗い流してくれればいいのに
何を勘違いしてた 綺麗事でごまかして
笑わせたことよりずっと 泣かせたことが多かった
我が道を行くことと わがままの違いを僕は無視してた
僕は 僕は 何をしていた 深く 後悔 込上げる
ざくり ざくり ナイフ持ち出し これでもか これでもか 叫び刺す
だけど痛み感じられない 人を愛す資格なんてない
泣いて 泣いて 涙かれても まだだ まだだ 泣き足りない
泣いて 泣いて 声がかれても 君の痛みにかなわない
泣いて 泣いて すべて涙が 洗い流してくれれば
そんな風に思う僕には 涙流す資格もない
君のところへ 戻れるわけもない
涙を流す資格は
たぶん私にもありません。
それでも涙はとめどなくあふれます。
それでも愛もとめどなくあふれます。
何がいけないのかわからない。何かいけない事あったかなと考えてみたがわからない。というか、私の人生いけない事だらけで、逆に今どれを反省すべきなのかわからない。「ほんとにいいの?」
「ほんとにこのままでいいの?」
彼が「ちゃんとご飯食べなよ。」と言っている声が、聞こえるには聞こえたのだが、そんな事よりも「ほんとにそれでいいの?」「なにが?」の押し問答が忙しくて、返事をする余裕がなかった。
と同時に、まだ頭の片隅に少しばかり残っていた理性が、「私、なんかおかしい。」と気づき始めた。これがウワサに聞く幻聴なのだろうか。ということは、私、統合失調症になってしまったのだろうか。でも自覚している自分もいる。これはどういう事なんだ。
私は、状況を整理するために、わずかに残った理性をフル稼働して声を出してみた。
「どうしたの?」と聞く彼に、頭の中が「ほんとにいいの?」でいっぱいだと話をした。「どうしたんだろうねえ。」と彼は不思議そう。「私なんかおかしくなったかも。」
声を出して話をしたことで、気が紛れたというか、状況が整理できてきたというか、私は少しずつ平静を取り戻してきた。なんとなくわかった。考えがまとまらない状態に陥ってしまったのだ。脳の神経伝達がどこかで途切れて、情報信号が同じところをループしていたように思った。いつも通り自問自答をしていたら、その「答」を考える部分にとつぜん「問」が届かなくなってしまったみたい。「いいの?」という思いの行き場がなくなって、頭の中でどんどん増幅していた感じ。
こわい。こわい。私はどうなってしまうんだろう。
それからしばらくすると、次第に不の連想の連鎖が始まった。これまでに私が味わった、苦い思い出の数々が、フラッシュバックのように脳裏によみがえってきた。私がやってしまった小さな失敗、私と一緒にいた誰かがやってしまった大きな失敗。場面場面が鮮やかに思い出された。そのたびに、言葉で責めることはなくても、本当に嫌そうな顔を一瞬だけ見せる回りの人々。みな一様に笑顔が消え、顔がゆがみ、目を合わせてもくれない。そういう色々な人の表情が、一枚一枚スライドショーみたいに、順送りで現れた。
ごめんなさい、私がいけなかったんだ。私があんな事しなければよかったんだ。全部私が悪いんだ。今こうして私が泣いているのも、誰のせいでもない。私が一人で勝手に泣いているだけだ。ということは、原因は私にあるのだ。私が悪いんだ。ごめんなさい。私なんて生まれなければよかったのに。私に関わらなければあの人があんな表情をすることはなかったのに。私なんていなくなっちゃえばいいのに。
・・・・と、昨日の夜は、ワンワン泣いた。
でも今日はまだ、生きている。
それは、医師の鎌田實先生の著書であった。
鎌田先生といえば、やはり私は以前見た「課外授業~ようこそ先輩~」を思い出す。「最後の最後まで見捨てない医療」を掲げ、常に患者の声に耳を傾けてきた先生である。「病」だけでなく「心」も受け止める先生である。
この本は2005年に発売されたハードカバー本を文庫化したもので、書下ろしではないらしい。でも私にとっては初めて見る本だった。私はタイトルにひかれ、パラパラと中をめくってみた。
最初の数ページのお話を読んで、本屋さんでの立ち読みにも関わらず、私はポロポロと涙をこぼして泣いてしまった。それは、末期がんの善さんのお話。
こうして看護師さんとお花見に言った善さんは、帰ってきてから鎌田先生にこう言ったという。末期がんの善さんは病室で、桜が咲いたというニュースをテレビで見た。
「来年は、生きて、桜を見られないだろうな」
ひとり言のように言った。
彼は自分の病気のことを、すべて知っていた。
偶然、ほかの患者さんの看護のために、若い看護師が善さんの病室にいた。その言葉を聞いた看護師は、何か返事をしなければいけないと思った。
「どうしよう。どうしよう……」
困った。気休めのような嘘は言えなかった。ドキドキしてきた。
人生の瀬戸際に立たされた人に、かける言葉がないことがある。言葉なんか無力になることがあるんだ。返す言葉は見つけられなかった。
しかし、若い看護師は、善さんの言葉を自分のなかで握りつぶさなかった。静かに病室を出た。ナース・ステーションに戻って、スタッフに報告した。スタッフも悩んだ。いい言葉が見つからない。
善さんは主治医から、ていねいな告知を受けていた。進行した前立腺がんであること。骨に多発性の転移があって、歩けなくなったこと。すべてが、隠すことなく本人に伝えられていた。
「来年はよくなって、お花見ができますよ」
そんな、その場しのぎの嘘が、かえって彼を傷つけてしまうことになるのを、スタッフみんなが知っていた。
言葉を探した。看護のプロフェッショナルとして、元気や勇気の出る言葉をかけてあげたいと、看護師たちは考えた。
考えても、考えても、いい言葉は見つけられなかった。
一人のベテランの看護師が口ごもった。
「いい言葉は見つからないけど……。善さんの声は聞こえていますって、それだけは伝えてあげたいわよね」
スタッフの考えは同じ方向に向かいだした。病棟師長が言った。
「善さんをお花見に連れてってあげたいわね。午後の仕事は厳しいけど、みんなでカバーしあって、二人をフリーにしましょう。病院の運転手さんに車を出してもらうように頼んでみます」
(集英社書籍ポータルサイトより)
善さんの「来年は、生きて、桜を見られないだろうな」という言葉は、自分で自分に言い聞かせていた言葉だったのだ。だから無視してくれてもよかった。別にお花見に行きたかったわけではなかった。「先生は俺の心はわからないだろうな」
でも善さんは、「うれしかった」を繰り返した。それは桜を見たことではなく、赤の他人である看護師さんが、ひとり言とも言える自分の言葉を受け止めてくれたことがうれしかったのだと言う。言葉を受け止めて色々と努力してくれたことが、とにかくうれしかったのだと言う。
もう私は、涙で先が読めなくなって、本を閉じた。
希望を失っている人、気力を失っている人、かける言葉が見つからないとき。そんなときには、とにかくその人の話を聞いてあげる事が大事なのだなと、改めて思った。そして鎌田先生が「課外授業」でもおっしゃっていたが、聞くことの一番の目的は、『相手を理解すること』。理解できなくとも『理解しようとすること』なのだ。
病気よりも辛いこと、それは無関心。話を聞いてもらえないこと。誰からも必要とされないことほど、辛く悲しく生きる力を奪われることはない。
そして私も、言葉を受け止めてくれる人を心から求めているのだと、強く思った。
※本は、うつ症状が軽くなって、文章がきちんと集中して読めるようになったら購入させていただきます。