fc2ブログ
私は単純だ
2008.03.11 Tue 20:13 | モノの見方、考え方。 | 心と身体
 久しぶりに他人の文章を読んだ。といってもネットで。今一番チェキなバンド藍坊主hozzyさんのコラムだ。
 近頃はネト友たちのブログがどんどん更新停滞してしまい、気軽に読めるものがなくなってしまったので。
 hozzyさんは、ボーカリストであり作詞作曲もする”表現者”らしく、マンガから哲学書まで読み、パンクからクラシックまで聴き、世界各地に行き、いつも変なことを考えている人なんだという事がよくわかる。

俺、なんでhozzyって自分で改名したのか今日のリハの帰り道に解った。
俺、自分と対話したいの。
真剣に話し合いたいの(ヤバめですか?)。
私、「佐々木健太」っていう者ですが、「佐々木健太」でいたら、佐々木健太がわからんの。

(2008/3/7 (金) )

こんな哲学的な自問自答があるかと思えば、どうでもいい話もある。

タバコやお香なんかの灰が皿からこぼれ落ちたとき、もの凄くやってしまった感に侵されて気分が萎える。
こいつがカーペットなんかの繊維系敷物の上に落ちたときなんてのは焦げる恐れと合わせて最悪であります。

(2007/11/8 (木))

他人の感性って面白いなあとおもった。

 最近の私は、毎日毎日同じことばかり書いているような気がする。誰とも話さず、何も読まず、気に入ったテレビばかりを見て、ほとんどの時間を考え事に当てている。発想が単一的。このままでは、新しい発見もできそうにない。その事に、ついさっきようやく気がついた。

久しぶりに紙とペンで計算式を解いてみました。
小学生か中学生か忘れたけど初歩的な簡単なやつ。
14.1×0.63とか1.372÷0.49とかこんなやつを何十個か。カリカリ淡々とやってみたんだけれども、しかしねぇ見事に間違えますな笑。計算ミスは昔から直らないなぁ。
てゆうかなんで急に計算をしてみたくなったかというと、昨日読み終えたある本の著者(こないだコラムで書いたやたら読むのに時間がかかった本、やっと三巻全部完読できた。。。)が言うには、この世界で最も完璧なのは「数学」だと断定していたからです。

(中略)
そうすると確かに、数学の明らかさに比べたら他のものごとはずっと曖昧に構成されているんだなぁ、と改めて痛感しました。数学ずっと嫌いだったけど、ちょっとかなり尊敬の部類に昇格しています笑。ブラボー!俺は単純だ。
(2007/3/15 (木) )

今の私は脳がどうにかなっていて、計算なんてむりだ。そう思っていた。でもこのコラムを読んでいたら、急に私も計算をしてみたくなった。紙に書いて小数点の計算をするなんて何年ぶりだろう?できた、できたぞ!ホジより上だ!ブラボー!私は単純だ。
 そんな事で、フッとほくそえんだ私がおかしかった。

 もっと他の人と触れ合わないとだめだなあ。悪いことばかりではないはず。一人でも大勢でも、どうせ傷ついているのなら、大勢でいたほうが何かいい事が起きる可能性がある。新しい発見の可能性がある。そういう事なんだな。

 それから引いてみたエンジェルメッセージカードは『信頼』のカードだった。『信頼しましょう。自分自身、相手、そして、明るい未来を。』と書いてあった。そして、詩人エマーソンの言葉が添えてあった。

人を信じなさい。そうすれば、人はあなたに誠実にふるまうだろう。人に寛大でありなさい。そうすれば、人も寛大さを示してくれるだろう。-エマーソン

なんだか、色々な意味で、『今までごめんなさい。』と思った。
 今の私の発想がこんなに健全なのは、さっき久しぶりに熟睡したからかもしれない。昼寝はダメだって決めたのに・・・。まあいいか。決まりなんて全部守らなくてもいいじゃん。守れるわけがない。

 引用ばかりで申し訳ないのだが、最後もhozzyさんの言葉でしめようと思う。

俺が消えれば世界は消える。君が消えれば君にとっての世界は消える。あの電柱も石も木も形も言葉も意味も消える。光も闇も音も消える。時間も距離も次元も消える。消えるという概念さえ消える。「わたし」が消える。そして無が消える。

無が消えるって想像できん。ぞくぞくするぞ。

(2006/9/30 (土) )

このコラムは、「わたし」がいる限りこの世界はしっかりと存在すると教えてくれた。この世界に意味を与えているのは「わたし」。もっと「わたし」がしっかりしなくちゃね。
 よし、私の今日は、今からはじまります。

スポンサーサイト



絵手紙がつなぐ家族
2008.03.11 Tue 12:26 | ドキュメンタリー | テレビ・ラジオ
 日曜日の深夜にやっていた「NNN ドキュメント'08」は、『母は鬼であり 天使なんだ。絵手紙がつなぐ家族の絆』という番組であった。宮城テレビで昨年の夏に放送した番組だそうだ。

仙台市内の小さな喫茶店の壁に、たくさんの絵手紙がある。その作者で喫茶店の店主の会田洋子さんはかつて悪性リンパ腫を患い、入退院を繰り返した。今もさまざまな薬を服用しなければならず、再発したら命の保証はないという。洋子さんが闘病の末、家に戻った時、娘はいじめに遭ってリストカットをし、息子は学校に行かなくなっていた。崩壊寸前の家族をつなぎ留めたのは、洋子さんが描いた絵手紙だった。
(番組紹介より)

最近、終末医療の話がつづいていたので、もういいかなと思ってブログに書こうかどうしようか迷った。が、見てから1日たってもどうしても忘れられない言葉があって、今まで見た番組とは異なるテーマもあったので、やはり書き留めておくことにする。

 私が忘れられなかった言葉は、非行を繰り返す息子の崇介さん(18歳)の言葉だった。

基本、あの絵きらいなんで。絵を描くようになってから、俺と妹と親父のことをほったらかしなんですよ。絵描き始めてから何もしなくなっちゃって。なんか、絵なんか書かなきゃいいのにって思うのがありますね。

私はこの言葉を聞いて、勝手にグサっと胸につきささるものがあったのだ。
 今の私も、心のもやもやを表現したい、誰かに伝えたい、わかってもらいたい、そんな気持ちでひたすら文章を書きなぐり、(元からとはいえ)家事なんてほったらかし。彼のこともほったらかし。家族のこともほったらかしだ。「順番が違うんじゃないの?」と折に触れよく母に言われる事を思い出す。いったい何をやっているんだ?もっと大事なことがあるだろう?文章なんて書かなきゃいいのにって、実は誰かに思われてるんだろう。

 だが、やはり親子の間には、もっと複雑で深いいろいろな思いがあるようだ。崇介さんは小さいころからお母さん子だったという。『いつまで生きられるかわからないから、せめて母親として子供たちに何か残したい』という母の思いも、自分をかまってくれないという寂しさにしか思えないのだろう。実は彼は、母親が死んでしまうかもしれないという辛い現実を、受け止めることができずに苦しんでいたのだ。

毎日が・・・毎日毎日が、夢がお袋が死んじゃう夢なんで・・・

そう言って、嗚咽を漏らす崇介さん。本当はお母さんが大好きで仕方がないのだと、手に取るようにわかった。

 一方で母親の洋子さんは、崇介さんの非行の事で悩んでいた。「親しかいないんだよ当たれる人が。外で気を張ってるから。」という友人の言葉にも、涙を拭きながらこう話した。

だけど切ないよそんなの。やっぱり家のこと考えてさ、娘のリストカット終わったら今度は息子の非行じゃん?あたしは一生懸命がんばってさ、絵描いてさ、それもやめろって言われてさ。

それでも、洋子さんにできることは、息子にあてて絵手紙を書き続けることしかなかった。崇介さんは、まだまだ青い小鳥のピーだと。洋子さんは、暖かそうな巣に体の大きな青い鳥の絵を描いて、次の言葉を添えた。

どんな時でも
何があっても
守ってあげるから
いつでも帰っておいでね。

ままのピ~だもんね

「あ、そう。」とぶっきらぼうに、照れくさそうに絵手紙を受け取った崇介さんは言った。

なんか今回のピー不細工だな。目がまず変なとこにある。目とくちばしの位置が違う。

「あの絵、嫌いなんだ」と言っていた崇介さん。本当はいつも絵をよーく見ていたのだった。

 洋子さんは言っていた。

絵手紙も、最初は子供へのメッセージだったのが、今では自分の生きがいにもなっています。家族のため人のため=自分のためだったなっていうのは、最近の気づきですけど。時間っていうのはそうやって使っていくもんだって。病気にならなかったらわからなかったですね。

本当にそうだ。自分のためは人のため。人のためは自分のため。そんな普通の人間関係の意味、そして生きていく意味が、今の私はなかなか理解できないでいる。でも、そんな病気になったからこそ、いつかすんなり理解できるようになったときには、得がたい感動と確信が手に入るのかもしれない。

 会田洋子さんのホームページをみつけた。『画伯めいか』 ここに行けば、会田さんの、ユニークで大胆で鮮やかな色彩の絵と、家族への想いがあふれた言葉の数々を見ることができる。

楽園から出られるか
 たぶん、私が思っているほど、周囲の人は誰も私の事なんて気にしていない。むしろ見ていない。逆に私が誰かに見て欲しくて、気を引くような行動をとればとるほど、普通の人はみな怪訝な顔をして遠ざかっていく。事実、本当の私を知って、多くの友人が「めんどくさい。」と次第に離れていった。

 そして結局、感受性が強い人、同じような考え方、同じような境遇の人だけが残り、次第に集まるようになってくる気がする。似たような心の傷をなめあって癒しあって、誰にも邪魔されず、傷つくこともない楽園を作るのだ。
 だがこれは、たびたび私がこのブログで気にしている『集団的偏向現象』となる危険性はないのだろうか。そんなぬるま湯の環境にいたら、ますます外界に対して弱い人間になってしまうのではないだろうか。

集団偏向現象(Group Polarization)
もともと同じような考え方を持っている人をある一所に集めて、他の情報から遮断してしまい、同じような考え方の人の間だけでどんどん話をすると、当初もっていた傾向がどんどん過激化していく現象。

一生隔離されて楽園で生きていくのなら、それもいい。だが、いつかはまた、世間の荒波の中に飛び出していかなければならない日がくるだろう。
 それを考えると、嫌なことから極力逃げている今の状態は、果たしていいことなのか。頭の片隅では、冷静にそんな事を考えている私がいる。

 うつ病患者への家族の接し方。よく言われるのは、理解する、励まさない、責めない、話は相槌で聞く、暖かく包み込んで見守る・・・。これらは、元気な子供にやったら、ただの甘やかしばかりだ。私はこんな暖かい扱いを受ける資格があるのか。本当に病気なのか、やる気の問題なのか、逃げているだけなのか、甘えているだけなのか、自分でもわかりかねる。私の身内や周りの人間は、さぞかし私を扱いあぐねていることと思う。

 実際、何か辛いことがあるとすぐに泣き、「死にたい」ともらし、能面のように無表情な顔をして昼間から寝込み、それで許されると思っている私がいる。それで許されている私がいる。どうしてみんなこんなに優しいんだろう。たぶんみんな、上に書いたような接し方の情報をインターネットあたりで手に入れて、私の事を好きなようにさせてくれているのだ。こんなにサボってていいの?こんなに甘えてていいの?私は余計に自分を責めてしまう。

 だけどやっぱり、私の足には鉄の鎖がついている。背中の羽根は折れている。食べたくもない。遊びたくもない。ただひたすら眠い。そんな私が今できるお返しは、死なずに毎日を生き抜くことだけ。それさえも面倒くさくて辛くて大変な事なのだけれど、他に何もできそうなことがない。