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変な言葉たち
2008.03.15 Sat 13:26 | エッセイ | 小説・文学
 昨日の大雨とは一転、朝から快晴となった今日、掃除や洗濯・・・あれこれしなくちゃと頭がいっぱいになってシッチャカメッチャカになって、私は固まってしまった。それを他人事のように見ていた彼が言った。

くりんちだねー

くりんちってなんだ?ちょっとかわいいじゃないの。「それって何語?」と聞いたら、「くりんちはくりんちだよ。」と言う彼。えー聞いたことがない。
 調べてみたら、ボクシング用語の”クリンチ”が出てきた。ああ、クリンチね。でもそれ、普段使う言葉なのだろうか?彼は会社でよく使うのだという。
 元の意味を英和辞典で調べてみたら、「clinch(クリンチ)」=「しっかり固定する、激しく抱擁する」という意味らしい。つまり、あれこれやることが多すぎて、がんじがらめになって、身動きが取れないことを言うのかな。ふむ。確かに今の私は”くりんち”です。

 そういう業界用語というか、会社用語って、意外と本人達は知らない間に使っていることが多い。
 私は会社に入ってすぐ、先輩が言ったこの言葉の意味がわからなかった。

あー!仕事がさちってきた!

さち?幸?この人喜んでる?忙しすぎておかしくなっちゃったのかな?
 そのうちに、電子回路の出力波形を見て、同じ事を言っている人を発見した。

これ、さちっちゃってるわ・・・

ここで私は勇気を出して聞いてみた。「さちるってどういう意味ですか?」すると先輩もちょっと困った顔をして「さちるはさちるだよ。」と言う。えー聞いたことがない。
 他の先輩が教えてくれた事には、「saturation(サチュレーション)」=「飽和する」の略だという。つまり、あれこれやることが多すぎて、いっぱいいっぱいになっていることを言うらしい。波形で言うと、波の山の部分が頭打ちになってしまっている状態を「サチる」と言うのだ。

saturation.jpg←サチっている波形はこんな感じ

今では私も普通に使っている「サチる」という言葉も、普通の人は使わないのかなあと思ったり。でも彼に聞くと彼も会社で使うらしいので、サラリーマン(技術系?)は意外と普通に使っているのかもしれない。

 そう考えていたら面白く思えてきて、他にもないのかなあと彼に聞いてみた。すると妙な言葉を教えてくれた。

なめなめする

・・・・・。
一体どういう会社なんだ。なんでも、予算申請とか、急いで適当に値を決める事を『なめなめする』と言うのだそうだ。『鉛筆をなめた値』とも言うらしい。だが彼は、元の意味はわからないと言う。

 そういえば私は、亡くなった大正生まれの祖母が、よく鉛筆をなめていたことを思い出した。筆を使っていた昔の人は、乾いてきた筆を舐めたりしながら書く癖のある人も多かったと聞く。その名残りなのか私の祖母などは、昭和になって鉛筆に変わっても、その先をペロっと舐めてから字をかいていた。私が真似しようとすると、『鉛筆の芯には毒が入ってるからやめなさい』と、親に注意されたことを覚えている。

 シャーペンかボールペンを使う今となっては、鉛筆を使う人も少ないだろう。したがって、彼の会社で使われているこの言葉『なめなめする』は、相当古い人が作り出した俗語なのではないだろうかと思った。歴史を感じた。

 ためしにネットで『鉛筆をなめる』という言葉を調べてみたら、意外とヒットするページがあった。
 その中の1つ、トンボ鉛筆のFAQでは、本当に鉛筆をなめることについて書いてある。

Q.鉛筆をなめる人がいますが?
A.昔の鉛筆は薄くて粗悪な物があり、なめると書き味がしっとりとして濃く書けたので、鉛筆をなめる人がいたようです。

つまり昔の人は、特に丁寧に濃く書きあげたいときに、一生懸命に鉛筆をなめながら書いていたようなのだ。
 さらに他のさまざまなサイトを見て回ったところ、「鉛筆をなめる」という言葉は、その必死な姿から、コツコツと手作業で書く→苦心しながら書く→苦し紛れにでっち上げて書く→データを捏造して書く、といった意味に転じて使われるようになった、一部業界?の俗語らしい。

 私は、なんとなく全然逆の意味(適当に書くとか・・)かと思っていたので、なかなか面白い発見だった。そのうち廃れていく言葉なのだろうが、こういう言葉は意味を知ると奥が深いなあと思った。

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教えること教わること
 毎週おなじみの、「課外授業~ようこそ先輩」を見た。今日は、「教えることに挑戦しよう」というテーマで、本物の算数の先生が登場した。筑波大学附属小学校教諭の田中博史先生。
 「自然に、楽しく、気がつかないうちに学ばせる」がモットーの田中先生は、小学生のために算数の本『わくわくさんすう忍者』を執筆したり、算数のゲーム『イメージ九九トランプ』を開発したりする、算数界のスーパーティーチャーだと言う。

 今回の生徒は中学生。なんと、中学生が先生役になって、小学三年生にまだ知らぬ『分数』を教えてもらおうという課題だ。中学生達は、自分達が苦手な分数だけに、わかってもらうためにどう教えたらいいのか考えた。いろいろな道具を使ったり、ゲーム的な要素を取り入れたりして、奮闘していた。

 田中先生は言う。

 子供達が友達とか年下の子とかに教えるってことは、実は教えることで初めて本質がわかったりするんです。若い先生たちの多くが、そういう体験をいっぱいしてると思うんですよ。
 その時に、『全部大人たちは知っていて子供は全部受身だ』って思わないこと。やりながら、向こうのリアクションを見て軌道修正をしていくんです。

子供が少しでも興味を示してくれたら、そこを誉め、先生自身が本気で楽しんで教えることが大切なのだそうだ。

 私も、アルバイトで家庭教師をしたり、会社で勉強会をやったり、人を教えた事がある。確かに、その準備のとき、一生懸命勉強したし、意外な質問から新たな発見が見つかったこともある。そういう勉強のほうが、記憶に鮮明に残っているものだ。

 田中先生は笑いながら、最後にこう言っておられた。

 彼らがいろんな事を私に教えてくれなかったら、今のようにずっと授業をやり続けていたいと感じられなかったかもしれないな、って思うんですよ。
 っていうのは、私の中で予定通り全部こなしていったら、ワクワクして人に話したい事が見つからないんですよ。僕は今、講演をやりながらいろんな先生方にお話してまわってますけども、実は『私のクラスの子供がこんな事を見つけたんですよ!』って自慢してまわってるんです。

いくら下準備を完璧にしていても、予定外のところに新しい発見や期待していなかった喜びがある、ということを怖がってはいけない。そして、コミュニケーションをたくさんとることでそれを楽しまなければいけない。改めてそう思ったお話だった。