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多勢の中の孤独
 実家の父が、新しいDVDプレイヤーを購入したと自慢していたので、どれだけキレイか見てやろうと、東京上空から撮影した都会の夜景のDVDを見せてもらった。
 確かにきれいだった。都会のビルの明かり1つ1つが鮮明に見える。首都高を走る車のライトがはっきり見える。夜景を見ているうちに、私は、こんなたくさんの建物の中に無数に動く人々がいるんだと考えると、何とも言えない絶望感に襲われた。その中のちっぽけな一人にすぎない私になど、生きている事になんの意味もないと思った。たぶんこの景色の中に、私の存在に気づいてくれる人なんて一人もいないんだろうと、虚しくなった。

 その瞬間、母が言った。「こんな景色みてると、自分がちっぽけに思えるわねー。」おお、母も同じ事を考えていたのか、と少し驚いた。
 だが、続けて母はこう言った。「自分が考えてる悩みなんて、どうでもいい事に思えてくるわ。」すると父もうなずきながら言った。「そう。宇宙飛行士だって、みんなそう言うよね。」

 ああ、全然違うことを考えていたのか。確かに、父や母のように考えるのが普通かもしれない。健常者っていいなと心から思った。そして私は、ためしに言ってみた。「私は、全く逆の事を考えてたな。自分の存在意義が虚しく思えた。」だが母は、私の暗い気持ちなんて理解できなかったようだ。「だからそうよ。小さい悩みとかどうでもいいのよ。」

 やっぱり私の思いに気づいてくれる人なんて、この世の中に一人もいないんだろう。家族に囲まれていても、心のどこかが孤独だった。

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実家の太陽
2008.03.19 Wed 12:07 | アダルトチルドレン | 心と身体
 昨日は、久しぶりに実家に行き、たまたま仕事が休みだった父と、帰省していた姉と、母と、4人で街へ出ておいしいお昼をごちそうになった。
 繁華街の人ごみに出たのは何年ぶりだろう。姉が始終となりにいてくれたので、特に倒れることも気分が悪くなることもなく、無事に帰ってこれた。でもとても疲れて、帰宅してからはパタンと寝てしまった。
 人ごみもさることながら、私は家族の中でうまく立ち振る舞うことをずっと考えていた。コマゴマした言い合いがあったりしてあまりうまくいったとは言い難かったが、大喧嘩がなく何時間かを比較的楽しく過ごせたので、まあまあホッと肩の荷がおりたような感じがした。そして別れ際に、「みんなとお食事ができて本当に幸せだったわ。」と満足げにニコニコする母との顔をみて、よかったと思った。

 なんのかんの言って、あの家では母が太陽だった。みんなは母を中心に、母のほうを向いて周っていた。母が怒るととても怖い。でも母が暗いとみんなも悲しいし、母が明るいとみんなも楽しい。
 顔色ばかり伺うのは気分が左右されるし、辛いこともあるけれど、母の笑顔は本当にまぶしいと思う。

 危ういなりに、バランスを保って幸せでいようとする家族。こんな家族もいいかなと、私はあの実家からの精神的な自立をあきらめつつ思うのであった。この考え方、危ないのかなあ。脱出しないといけないのかなあ。

 それにしても疲れた。今日もまた寝て過ごそう。

我働くゆえに幸あり?
 今週の「爆笑問題のニッポンの教養」が面白かった。『我働くゆえに幸あり?』というテーマで、教育社会学が専門の本田由紀准教授を、東大に訪ねていた。

 はじめは、女性の先生だし「社会が悪い政府が悪い」などと早口でまくしたてるので、トッツキにくそうな人だなあと思っていた。が、途中から自分の生い立ちの話を始めた頃から、ああ、この人は私と同人種だと直感した。

 議論の本題は、おもに日本のニート問題について。今の日本の若者がだらしないなどと言われるのは「社会のしわよせだ」という本田先生。全部若者側に責任を帰属させて、バッシングしておけば済むというのはあんまりだという。
 そもそも日本は、世界の中ですごく変わった若年労働市場の形をしているのだそうだ。外国の若者は、学校で仕事に役立つ知識や能力をつけ(棒)、自分の力で仕事に飛びこんでいく『棒高跳びモデル』。一方で日本の若者の就職を、先生は『赤ちゃん受け渡しモデル』と呼んでいた。ふにゃふにゃで自立する力を持たない若者を、学校が抱きかかえて企業に受け渡す。企業は「しっかり育てますから。」と受け取って、企業の中で仕事をやらせながら人間を育てていく形を続けてきた。
 だがここへきて、企業の勝手でその抱き上げる腕が規模的に細くなっている。そして野ざらしに放り出された赤ちゃんたち。

 太田さんが「そういう人たちは別に世の中に文句言ってないでしょ。考えられないなあ。『赤ちゃん受け渡しモデル』で日本はずっとやってきて、それが成立してたわけでしょ。何社も落ち続けても、そんなの他人のせいではないよ。」などと、わざととも思える挑発的な発言を繰り返していたら、先生は言った。

 そういう人が多いから、批判的な言い方になってるから、お前のせいだ自己責任だという言い方があふれてるんです。正社員になれなかった人も、正社員でも働かされすぎて疲れきっている人も、こんなに辛いのは俺のせいだ、俺が悪かったって、自分が悪かったって。
 これだけひどいのは日本だけなんですよ。長時間労働がこれほどはびこっているのも日本だけ。同じ国際化社会の中にいてもね。これほど正社員と非正社員の賃金格差が激しくて、一回非正社員になっちゃうと正社員に戻りにくいのも日本だけ!

よくぞ言った!と私は思った。この辺から、本田先生のいろいろな感情が出始めてきたようだ。

 太田さんが、「そんなこと言ったってしょうがないじゃん。」と口をとがらせると、「なにが!辛い人がたくさんいるんだから、直せるところは直すべきでしょう。」と言い返す。

 個々の若者と、企業や政府を同列に論じるべきではありません!辛い人がいるのであれば、そこにはなにかの支援策が講じられるべきだと、私は思います。


 そして、そんな本田先生が理想と思う社会は、「すばらしくよくなる明日が想定できないところで、それでも生きていけるような社会」だそうだ。おっしゃる事はわかるのだが、大変抽象的でむずかしい。

 日本はいままでグングン上向きの成長の中で、いろんなことの意味をごまかしてきたんです。教育の意味、仕事の意味、家庭の意味。そういうものを問わなくても、とにかく頑張っていけば、いい成績取ればいい会社に入れるだろう、いい会社に入ればいい家に住めるし、きれいなお嫁さんがもらえる・・・。

ここで太田さんは、はたと気づいた。

 先生はだまされたと思ってるの?先生はむしろそういう日本の教育のど真ん中で勝ち抜いてきた人なわけでしょ。で、今幸せを手に入れた。それが間違ってたってこと?

するとウンウンと大きくうなづき「ある意味でね。」と答える本田先生。

 ここから先生の生い立ち話が始まった。本田先生の親御さんは高校教師。家に帰っても学校みたいなところで育って、進学校に通い、努力を積み重ねてそれなりにいい成績をあげてきた学生時代だったそうだ。

 成績が維持できたら「すごいね」って言われるんだけれども、落ちたら「おまえどうしたんだ」とか「ダメになったね」みたいに言われるので、もう強迫観念みたいに丸暗記をした。私は全然今やっていることが自分にとってなんら意味があるとは思えなかったし、「すごいね」って言われながらも自分がすごい人だとは全く思えなかったの。もうただ磨り減っていくって言うか、疲れきっていくっていうか、消耗していくだけみたいな感じがあったんですよ。
 あの膨大な無意味に感じられた勉強って言うのは何だったんだ、っていうことが、すごく自分の中にあって、それをなんとかしたいという考えはあります。

ああ、私とそっくりだ。太田さんは「俺から言わせると先生のほうが辛そうだね。」と言ったが、私もそう思った。この考え方は、ある意味、アダルトチルドレンなのではないだろうか。

 「精神的な内面的なしんどさを計るのは難しいけれど、収入とか人間関係とかそいうのは計れる。」と言う本田先生に、太田さんはぶっちゃけた。

 でも精神的なものが大事なんだ。収入がなくてしんどいってのはありますよ。知ってます。それは辛いし二度と戻りたくない。だけどそのしんどさ以上に、収入があったって、自分の中で発想ができなくなってきたっていうほうがもっとしんどいもん。
 じゃあ金なくて生活できなきゃ幸福は味わえないのかよ、っていう・・・願望だけどね。俺が言ってるのは。

 本田先生は、冷たい顔をして「願望です。」とバッサリ切り捨てていたけれど・・。
 うーん難しいなあ。精神的な幸/不幸を論ずるのは、お金のある恵まれた人だけなのだろうか。たとえば、私が大好きなマザーテレサの言葉。

「この世の最大の不幸は、貧しさでも病気でもない。自分が誰からも必要とされていないと感じることである。」 -マザー・テレサ

これも理想論にすぎないのかもしれない。それは、私が食事や住居の心配をしなくていいから、言っていられることなのかもしれない。やはり『貧しさ』は最大の不幸なのだろうか。

 でも、本田先生がやろうとしていることの目的は、若者に収入を与えることだけではないはずだ。日本の若者にも、生きる目的や他人から必要とされている喜びをもっと知る権利がある、そういう事を主張しておられるのではないか。そしてその結果、人々がやる気が出せて評価されて、それに見合った収入を得られる社会が正常だといいたいのではないだろうか。収入がすべて、というわけではないと思いたい。
 そして「私の場合は学んだことがそのあと、とりあえず役に立ってます。」と言う先生は、その「幸運」に感謝して、社会に還元しようとしている。そんな事を感じた。