Anちゃんは、昔からのゲーム仲間に囲まれてオンラインゲームをしていても、どこか楽しめないと言う。いろいろあって、ゲーム仲間に女子がいなくなってしまった今、本音やくだらない愚痴を話せる友達がいないのが原因の1つであろう。少し前に同じ状態だった私にはよくわかる。いわゆる『絶対的な味方』がいないのは、どんなに大勢の友人に囲まれていても、精神的にとても孤独だ。私やAnちゃんのように、”母”に過干渉に育てられてきた”娘”たちにとって、依存できる存在がいない状況・・・これほど辛いことはない。
本当は、私が元いた場所に戻ってあげたいところだが、私にも私の事情があり、また私がそこに戻ったところで解決できる問題でもないような気がした。
私とAnちゃんは、チャットをすることで傷をなめあった。女子が全体の1割しかいないといわれるオンラインゲーム界で、男性も女子の扱いには困っているのかもしれないとは思う。あえて男女を分ける必要もないとは思うのだが、一人でもゲームそのものを純粋に楽める”男性脳”と違って、”女性脳”はコミュニケーションを大切にする生き物だ。コミュニケーションが充実していなければ、何も楽しめない。けれども一方で、近づきすぎると逆に”女性”にリアルに興味を抱くようになる”男性”が多い現実の中で、信頼できる人でないと安易に心を許せないという悩みもある。
私たちは、別に、みんなからチヤホヤされるようないわゆる”姫プレイ”がしたい訳ではない。もちろんリアルな”出会い”を求めているわけでもない。常に着かず離れず見守ってくれる『絶対的な味方』がいる庇護の下で、たくさんの人と自由にのびのび遊びたいのだ。
書いていて、なんてわがままなんだろうと思った。いくつになっても甘えてる。まだまだ子供なのかな。
女子のネト友たちよ。たまにはお話しましょうね。愚痴のはけ口がないと、最終的になぜか自分を責めるようになるのは、私が一番わかっている。
それからAnちゃんへ。何度も「大好き」って言ってくれてありがとう。私も大好きです。
東大、慶應につづく対決スペシャル第3弾。今回訪問した京都大学からは、科学の教科書を書き換えるような革命的なアイデアが次々と生まれている。独創力はどんな人間に宿るのか?これが今回のテーマであった。
独創力 他のまねでなく、独自の考えで物事を作り出すこと。
全体的な感想は・・・やはり固い。自由な学府とは言うけれど、教授も学生も固いなぁと思った。個性的ではあったかもしれないが、真面目な人が多いなあと思った。
内容は、全部書ききれないので、気になった場面だけメモと私の感想を書いておく。
まず、まじめな小山勝二教授(エックス線天文学)と太田さんの議論が激しいバトルになった。
という太田さんにたいして「知らない事が事実として見つかることは我々にとっても喜びですよ。」と余裕を見せる小山先生。それを聞いて、エスカレートした太田さんは極端な例をだして小山先生を挑発する。独創的って言われた人たちは、みんな最初は認められないわけじゃない?学生にそういうヤツがピョコンと出てきて、『あんたの学問違うんじゃない?』って真っ向から対立するような事言い出したら、相手をしてくれるの?
だんだんあきれる小山先生は天動説だって仮説でしょ?もしかしたら金星に生命があるかもしれないじゃない!
詭弁(きべん=こじつけ)だ、詭弁じゃない、の平行線の議論であった。相変わらず、教授陣も太田さんも負けず嫌いだと痛感した。そういわれたら私議論に参加できない。さっぱりわからん。こんなの教養番組じゃないですよ!
サンプラザ中野みたいな風貌の鎌田浩毅教授(火山学)が紹介した、アルフレッド・ウェゲナー(地球物理学者)の話が印象的であった。
ふと、イチロー選手と仰木監督の話を思い出した。仰木監督だけは、イチローの変な打法を潰さなかった。みんなと違うことをやる人をほったらかすことの、覚悟と責任。指導者も大変だと思った。初めて『大陸は動く』と言い出した人です。他の地球物理学者が必死になって潰しにかかって、彼は失意の中で死んでしまう。でも50年後ぐらいに実証されたんです。
ウェゲナーは地図を見て、絵合わせの発想から思いついた。みんな気づいていたのだけど、学問にまで持っていったのはウェゲナーだけ。それは、周りに自由な人がいて彼を潰さなかったからです。
また山極壽一教授(霊長類社会生態学)が、最後にちらっと言っておられた言葉が胸にささった。
口先や机上の空論なら誰にでもできる。それを形にできるかどうか。そこが大切なのだ。私に足りないところだ。そしてたぶん、今の日本の若者にも足りないところだ。おもろい発想はだれでも知ってる。ここでいう『独創力』はおもろい発想だけじゃなくて、それを世間の中で一般化する力なんだ。その意欲がないと『独創力』といえない。それがあるかっていうと、今の京大にはなくなってきた。
阿辻哲次教授(中国文化史)のお話が面白かった。桑原武夫氏(仏文学者)の著書の中に
という意味の言葉があるのだそうだ。それを引用されて、京都大学の校風をこう説明した。大学の教師は猛獣使いであるべきだ。
ちなみに、田中さんが「とてもわかりやすいのですが、表現があまり適切ではないですね。」と冷静に諭していたのが笑えた。一歩間違ったら自分の首にかぶりついてくる虎やライオンといった猛獣を、上手に鞭でピシピシと芸を仕込みながらコントロールする。どれだけ上手に鞭をふるっていくか、それが教師の腕の見せ所であって、首をかまれて死んだらそれは本望と思え。これやっぱり京都大学のよき学風ではないかと思う。
殺されても本望だと思えるぐらいに手をやかせる、そういう猛獣がでてきてほしい。
太田さんが引用した西田幾多郎氏(哲学者)の話が印象的だった。相変わらず本をよく読んでいる人だ。
自分を殺して、なおかつ自己表現をめいっぱいする。その矛盾が難しい。『滅私』=自分を殺す。”私”というものをどんどん消していかないとダメだって書いてある。”知る”っていうのは、自分の思い込みをどんどん消していくことだから、”私”をどんどん消していかなきゃダメだ。人を好きになる時も、相手の事を考えて自分を抑える、それが”優しさ”である。だから”知る”=”優しさ”なんだっていうことが書いてある。だけど、それでなおかつ最終的に、自分であることをめいっぱいにする事が重要なんだって。つまり、花がきれいに咲くっていうのは、花であれっていう事をめいっぱいに表現してるんだと、それが”禅”なんだというわけ。
チャップリンも『ライムライト』という映画の中で同じ事を言う。バラは美しく咲こうとなんて思ってない。バラが美しいのは、ただ生きようとしているだけ。バラであれ。
人間の気質って言うのはそれぞれあって、気質のてっぺんまで磨くしかないんだと。自分であることをつきつめて”100%自分!”みたいなところへ行くしかないんじゃないかなあと。最終的には自己表現ってところに全部いくような気がする。
そして後半、爆笑問題と学生との対談の中で、過去の慶應SPのときと同じように、『自分の体験をいかに相手に伝わるように表現するか』という太田さんの持論が再び出てきた。
「本当に正しいことっていうのは、面白くて刺激的なものではなく、実は非常につまらないことだと思う。」という学生には
また「天才と凡人とは根本的に異なるものかなって思う。独創的になれないっていうあきらめに近いものがある。」という女子学生には他の人からみたらつまんないと思ってるかもしれないけど、君が感動したのは本当だと思うから、そしたらそれは君がどうやって感動したのかを表現できると思う。そこには君の独創力が必要だよ。君が感じた事なんだから、君自身の経験と独創力がなければ、君の全くのオリジナルの経験じゃないと、君が感動した体験ってのはできないんだよ。自分の生きてきた過程をヒントにしないと、その表現ってできないと思うのね。
しゃべってる事はどっかで聞いた前の人の知識であっても、その反応の仕方は絶対にオリジナルだと思う。あなたの周りにいるものには、全部あなたが入ってる。その状況って言うのは、全部あなたが入ってる。あなたはあなたから絶対に逃げられない。独創的じゃないということがありえない。
番組を通して聞いてみると、質問したりつっこんだり反論したり疑ったりしていた太田さんの中には、実は”独創性”に対するある程度の結論がぼんやりとできているのではないかと思った。内なる悩みをたくさん抱えた人は強い。そして人を感動させる話術。並居る京大教授陣と比べても、もっとも発想がユニークに思えた。だから『太田信者』という言葉ができたり、『アンチ太田』という人ができたりするのだろう。
スペシャル版はまた再放送があると思うので、詳しい内容は再放送を参照されたし。