原因は『何かの傷』で、結果は『外耳炎』なのかもしれないが、要はこれも間に『花粉症』が介在しているのだと信じている。花粉症おそるべし。
編集工学という名前がピンと来なくて、雑誌の編集ぐらいしか思いつかなかった私はあまり内容に関心がなく、昨夜リアルタイムでは見なかった。だが今朝、録画していた番組を見て、それはとても奥の深い哲学であると驚いた。
松岡さんが1990年に編集した著書に「情報の歴史
なるほどなるほど。これは表現者が誰しも抱えるジレンマであると思う。だが、それが面白いのだと松岡さんは言う。記録してるものをアウトプットするときに、インプットした状態のいろいろな情報とか知識だとか出来事と、それを語ったり再生したりするっていうのは変わりますよね。それが”編集”だと僕は思ってまして。
おそらく人間の脳とかその能力っていうのは中途半端で、入ったことや出来事を再生する時に、どうしても同じようにはならないようになってると思う。
そのズレが重要だろうと。その間に僕は関心があるんです。間で何が起きてるか。

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爆笑問題の太田さんは、たびたびこの番組でもでている”ジレンマ”について語りだした。
すると、松岡さんはうなずいた。でも作家も詩人も俳句の人も絵描きも、結局はみんなそのジレンマ抱えて試行錯誤してきていて、アートとか芸能ではコンセプトや考え方は20世紀にはだいたい出揃ったんじゃないかと言う。いいもの書きたいっていう中で、言葉にできないものを文字でなんとか埋めていこうとするわけですが、文字を埋めれば埋めるほど感情をそこに止めちゃうって言うことになりますよね。だけど感情って本当は動いてるじゃないですか。表現した時点でもう違う。そこに残ったものは”残骸”でしかなくて、文字じゃないものがほんとに表現したいもので。表現すればするほどそこから離れていくジレンマを感じる。
そんな今、松岡さんが一番関心あるのは、”言語”だという。言葉は「黒い雪」「けたたましいハンバーグ」とか、突然ありえないものを作れる。何を言っているのかわからないにも関わらず、複雑な何かその人によってかもし出された世界が出るのが面白い。言葉のズレというものについて、残された分野としての芸能や哲学が生まれる可能性があると言う。
確かに、言葉は面白い。単なる”文字”の羅列として切り取られ、そこに置かれているだけなのに、言葉と言葉の組み合わせの中に、”文字”には描かれていない空間のようなものを感じることがある。その感じ方は、書き手の書き手の感性と読み手の感性とが組み合わさったときにしか生まれないもので、私もそこに無限の可能性を感じる。だからこうして、言葉を書き続けるのかもしれない。
ところで、松岡さんの編集哲学には、「一対」を大事にするという思想があるという。
なるほどね。もともと日本人はあいまいな矛盾を抱えながら、それでも進んで生きていた民族だったのだ。あるものをシングルメッセージにするのはあまりよくなくて、こう思えることは別のある柔らかい言い方でやると全然違うものになる、そういう両極のものを持ちながらあり得たい。それを相互に編集したい。
そもそも日本というのは、最初からデュアルで相反したものを受け入れてたんじゃないか。天皇と幕府があり、公家と武家がいた。そういう風に2つ2つというものを重視してきたんじゃないか。そこに気づいてくると、日本人が作り上げる芸能とかメソッドと哲学というのは、もっとラジカル(極端)に進んだほうが、今の日本にはいい。
だた、片方をスパっと捨てるようになったのは明治維新あたりから。文明開化とともに、われわれ日本人も、2つあったらどっちか捨てなきゃいけないみたいな考え方をするようになったのだ。究極につきつめて善と悪に分け、悪とされて捨てられたものに触れるのはタブーとされる世界になってしまった。
そこに、根が生粋の日本人である私には、なんとも生きにくい空気があるのかもしれない。
松岡さんは言う。
絶対に許せないことが出てきたときにも、”価値観の転倒”のようなモデルがどこかにあればそれを応用することができる。そういう世界観みたいなものを想定して、松岡さんは何やら少しずつ準備しているらしい。(モノの見方を復活するためには)価値観の相対性を多様化するようなワールドモデルというかソシアルモデルみたいなものを、どっかに作っていく事になるんだと思う。
こんな頭の固い私でも、気軽に使えるようなモデルがほしい。楽しみ。
さて、私の今日の編集はどうだっただろうか。
一色さんは、以前もR30という番組に出演されて、当事者だからこそわかる数々のエピソードと、今うつに苦しんでいる私たちに向けたメッセージを下さった。今回も、お元気そうに楽しい語り口調で、当時を振り返っていた。
1987年、26歳で書いた脚本の映画『私をスキーに連れてって
しかし仕事が成功すればするほど、いつのまにか自分自身をまじめに追い詰めていた一色さんは、プレッシャーから逃れるために、頭痛薬や睡眠導入剤に依存するようになっていたのだそうだ。それでも自分が病気だとはまったく思わず、けれどもすごく無感動になってきた事は感じていた。疲れてるのか、もっと違う楽しみが必要なのか、少し仕事休んだほうがいのか、あるいはもっとしたほうがいいのか。すごくもどかしく、どうしていいかわからない状態だったという。
あまりにもおかしいと、奥さんに半ば無理やり腕をとられて精神病院に連れて行かれた一色さんは、先生に「君はうつ病だと思うよ。」と言われて、びっくりしたし嬉しかったと当時を振り返る。うつ病という名前をつけてもらったことが嬉しかったのだ。それまでは右も左もわからない真っ暗な迷路の中にいたから、とりあえず出口はあっちだよって教えられたようなものだと。
ここまで聞いただけでも、私は自分の事を思い出して似ているなあと思った。私は薬にこそ依存はしていなかったが、各種栄養ドリンクを一通り飲み、その値段がだんだん上がり、最後は養命酒をゴクゴク飲んでいた。リラックスグッズも手当たり次第に買いあさった。いつも体のどこかが不調で、いろいろな科の病院に通ったが、原因はわからなかった。
結局、家族に手を引かれて行った診療内科で、「うつ病です。」と言われた瞬間、私は泣きながら「ありがとうございます。」と答えたのを覚えている。
一色さんが、うつ病をリアルに言うとこんな感じだという。
- うつ病は、心の「がん」
- 人間って体だけで生きてるわけではなく、心があってそれがポジティブに生きていこうとするから生きていけるわけです。その心の部分がある日突然変異して、もう生きるのよそうよって言い始めるのがうつ病。この9年間ぐらい、日本では毎年約3万人の自殺者がいます。全員がうつではないかもしれないけれど、うつもがんと同じように自分の命を終わらせる病です。それほど深刻なものとして捕らえたい。
- 治ることを願わない
- どんな病気をしても、たいてい治りたい元気になりたいと思うものです。それは心があるから。元気になればおいしいものが食べれる、楽しいことがあると思うから。ところがうつ病は脳の病気ですから、頭の中で理解できても感情がない。生きることの楽しさがそもそも失われてしまう。
- 消えてなくなりたい
- 自殺にもそれなりのエネルギーや体力がいる。うつ病はその元気もないんです。治りかけの患者さんが危ないと言われるのは、その気力が出てくるからです。この番組をみている患者さんは、きっと一日が始まる朝日が憂鬱だろうな、その気持ちがわかります。逆に夕日はほっとするんですよ。
- 心にも寿命がある
- 体に寿命があるように心にもあって。うつで自殺した友達が数人いるんですが、ご家族の方は気の毒なぐらい自分を責める。うつ病に関してはちょっとちがうよ。うつって脳の病気ですから、それによって命を絶つのはひとつの症状としてしょうがないことで、家族が自分を責めたりその人を責めたりするのは違う。
そんな一色さんに回復の兆しが見えてきたのは、だんだん感情が戻ってくることを感じた時からだという。人としゃべっててふと可笑しくなったり、子供が起こしにきたときにジワっと泣けてきたり、脳の感情の線がつながり始めたのだという。
その頃、ようやくとりかかった脚本は、若者たちが生と死の意味を求めて旅をする物語「彼女が死んじゃった
そしてこの脚本を書き終えたとき、一色さんはようやく自分の中でうつ病の整理がついたと思ったそうだ。
そう思うと、私もそろそろ感情の線がつながり始めているころなのだろうかと思う。たまにおかしくて笑う。たまにフェレットを見て幸せだなと思う。まだまだ無感情な時間の方が長いが、今ようやく、こうしてブログに文章を書いたりしながら、自分の中で整理をしはじめているところなのかもしれない。もがきながらも決着をつけようとしているところなのかもしれない。わからないけれど。
生きる実感を取り戻した一色さんは、こう思ったと言う。
最後は一色さんから、うつ病患者およびその家族へのメッセージ:ささいな事なんですけどね、普通にご飯を食べておいしかったり、普通の生活が一個一個変わってきましたよね。陳腐なことなんだけど、当たり前のことってなかなか気づかないですよね。僕ら普通に生きてるわけですけど、実は心のパワーを必要として生きてる。
そして著書「うつから帰って参りました。周りの方にも病気の方にも、一つだけ救いがあるのは、ちゃんと直せば後遺症がないこと。とにかく他の病気と違って、治ったあと生活に制限があるとか、後遺症があるとかいうようなことはない病気なんで、治ってさえしまえば本人頑張ると思いますんで、周りの人はひとつまぁ辛抱をと・・・。
体験者の方の話は、とても励みになる。一色さん、いつもありがとうございます。うつ病を経たことで、”いま”への意識が強くなった。
いま、大仕事だとは思わずに、自然に呼吸が出来ること。
いま、なんの薬にも頼らずに、仕事に向かえること。
反面、いまが永遠に続くことはあり得ないという不安、
あるいは覚悟も、身体で理解している。
だから、ささいなことがらも、愛おしい。