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2008.04.06 Sun 20:01 |
課外授業~ようこそ先輩~ |
テレビ・ラジオ
これは、タレントのルー大柴さんのライフつまり人生のテーマだ。恥かけ 汗かけ 涙しろ!
「課外授業~ようこそ先輩~」のルー大柴さんの回、『ビッグなドリームをキャッチキャッチキャッチ!』を見た。
ルー大柴さんの小学生の頃の夢は、”アカデミー賞をゲットすること”だったそうだ。ルーさんの家業は大きな印刷屋さん。跡取りとして育てられたルーさんは、映画スターになる夢を誰にも言えず、いつもアカデミー賞を受賞したシーンを『一人妄想芝居』をしていたそうだ。
そんな少年時代を振り返ったルーさんは、後輩の小学生たちにも自分のドリームつまり夢を描いてもらいたいという。そして夢に向かって実現したときの感動を、ちょっとしたお芝居として表現してもらおうという課題を出した。
照れる子供たちに、ルーさんは『恥かけ 汗かけ 涙しろ!』というメッセージを伝える。
恥をかくことを恐れるな!恥かいてもいいから、私はこれだけを誰かに言いたいと自分で思ったら、その気持ちを笑われてもいいから相手に言う。相手も、心のそこから私を思って言ってくれたんだなと思うと、ここでトゥギャザーになれるわけです。
映画スターへの夢をあきらめられずに家を飛び出した若き日のルーさんは、片言の英語とアクションでヨーロッパを放浪し、恥をかき、汗をかきながら、夢をふくらませていったそうだ。その頃を振り返って、ルーさんは言う。
そんなルーさんにスタッフが『今の夢は?』と聞くと、ルーさんは静かに微笑んで言った。明日のことなんてわからないじゃないですか、人生。だからドリームつまり夢で考えてたら、もしかしたら現実になるかもしれない。こんなのできないよって言っちゃったらそこでストップしちゃう。
12歳から、今54歳ですけども、いろいろあったなと。でもその気持ちはそんなに変わってないつもり。大人になってもね。
いつもふざけているルーさんが、ちょっとかっこいいなと思えた。アカデミー賞主演男優賞をとること。変わらない。永遠のテーマです。
授業で、『メジャーリーガーになってWBCで金メダルをもらう』という夢を書いた男の子がいた。彼は2年前に父を亡くしていた。
みんなで彼の夢をお芝居にして演技発表したとき、最後の優勝インタビューのシーンで、男の子は少し言葉につまりながらも、こう言った。
ルーさんの目にも涙が光っていた。天国にいる父とキャッチボールしたのが、野球をするきっかけでした。そのおかげでメジャーリーガーになれました。本当に感謝しています。ありがとうございました!
そして、小学生の時、ドリームつまり夢をあきらめるなと言ってくださったルー大柴さん、本当にサンキューベリーマッチ!
私は、その子が本当にメジャーリーガーになれそうな気がしてきた。夢はあきらめなければ叶うのかもしれない。妄想でもいいから、笑われてもいいから、死ぬ瞬間まで願い続けるのも悪くないと思った。
昨日は、近所の定職屋さんに夜ご飯を食べに行った。久しぶりの夜の外出だった。せっかくだから、帰りは少しだけ遠回りをして、桜が咲いている場所を通って帰ることにした。
表通りから一本裏に入った道は、街頭もまばらで真っ暗だった。たしかこの辺に大きな桜の木が何本かあったはずなんだけど・・・。ふと上を見上げたら、まさにそこに満開の桜があった。まったく気がつかなかった。そして思ったよりも迫力がなく、期待はずれだなあと思いながら、私はトボトボと家路についた。
昔、私が元気な頃に、仲間たちと大騒ぎをしながら眺めた夜桜は、まるで桜そのものが光を放っているかのように夜空に白く浮かび上がっていた。桜ってきれいだなぁと心から思ったあの感動は、昨日の桜には微塵もなかった。うっかりすると、その存在すら気がつかないところだった。
あの花見会場は、夜桜を最もきれいに見せるように工夫してライトアップされていたのだなあと、今さらながら改めて気づいた。
なんでもそうだ。光がないと、私たちは目でモノを見ることができない。地球が美しい星だというのも、太陽に照らされて海が青く見えるから美しいのであって、真っ暗な空間の真っ黒な物体になど、気づく者すらいないだろう。
桜もそれ自身では輝くことはない。けれども光に照らされるとなんとも美しい淡い薄桃色の花びらを持つ。いまやテレビや雑誌でそれをよく知っている私たちは、真っ暗闇の地味な桜をみると「ダメじゃん。」と落胆してすぐにその場所を離れることになる。
私も、『そこに生きているだけでいいから』とか慰めるようによく言われるけれど、そんなの本当だろうかと思う。人間だって、誰かに活かされて照らされて、それによって魅力を十分に発揮してこそ、初めて輝く価値があるのではないだろうか。「本当は私だって照らされればきれいなのよ。」とじっと息をひそめて待っていたって、存在にすら気づかれないでみんなが目の間を通り過ぎてゆく。
こんな私に意味はあるのだろうかと、また孤独を感じる夜であった。
表通りから一本裏に入った道は、街頭もまばらで真っ暗だった。たしかこの辺に大きな桜の木が何本かあったはずなんだけど・・・。ふと上を見上げたら、まさにそこに満開の桜があった。まったく気がつかなかった。そして思ったよりも迫力がなく、期待はずれだなあと思いながら、私はトボトボと家路についた。
昔、私が元気な頃に、仲間たちと大騒ぎをしながら眺めた夜桜は、まるで桜そのものが光を放っているかのように夜空に白く浮かび上がっていた。桜ってきれいだなぁと心から思ったあの感動は、昨日の桜には微塵もなかった。うっかりすると、その存在すら気がつかないところだった。
あの花見会場は、夜桜を最もきれいに見せるように工夫してライトアップされていたのだなあと、今さらながら改めて気づいた。
なんでもそうだ。光がないと、私たちは目でモノを見ることができない。地球が美しい星だというのも、太陽に照らされて海が青く見えるから美しいのであって、真っ暗な空間の真っ黒な物体になど、気づく者すらいないだろう。
桜もそれ自身では輝くことはない。けれども光に照らされるとなんとも美しい淡い薄桃色の花びらを持つ。いまやテレビや雑誌でそれをよく知っている私たちは、真っ暗闇の地味な桜をみると「ダメじゃん。」と落胆してすぐにその場所を離れることになる。
私も、『そこに生きているだけでいいから』とか慰めるようによく言われるけれど、そんなの本当だろうかと思う。人間だって、誰かに活かされて照らされて、それによって魅力を十分に発揮してこそ、初めて輝く価値があるのではないだろうか。「本当は私だって照らされればきれいなのよ。」とじっと息をひそめて待っていたって、存在にすら気づかれないでみんなが目の間を通り過ぎてゆく。
こんな私に意味はあるのだろうかと、また孤独を感じる夜であった。
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