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変身したい話
2008.04.09 Wed 11:31 | NHK教育 | テレビ・ラジオ
 「一期一会」の再放送をみた。『変身したい話@俳優 半田健人×20歳無職』の回だ。

 半田健人さん(23)といえば、保阪尚希似のイケメン俳優。『仮面ライダー555』で一躍有名になったその一方で、”高層ビルオタク”としても知られ、なんとなくいつも自信満々な雰囲気がする人だ。だがこの番組では、ひたすら聞き役に徹していて、失礼ながら見直してしまった。

 対するのは佐藤夢也君(20)。名前に、ご両親のかけた思いがしのばれる。そんな彼は、アルバイトを転々として現在無職。名前とは裏腹に、夢もやりたいこともなく今は一日中家で過ごしているという。いわゆる”ヒキコモリ”とか”ニート”とか言われる立場であろうか。
 だが本人は、いつまでもこんな生活をしていたくない、そんな生活から抜け出すヒントが欲しいと、自分で番組に応募してきたのだ。

 半田さんが佐藤君を兵庫の自宅に訪ねた。半田さんも兵庫県出身らしく、関西弁で話は進む。佐藤君の両親は共働きで、家には佐藤君一人しかいなかった。コタツにもぐってテレビをみたり漫画を読んだり、眠くなったら寝て過ごす。ゲームはあまりやらないしパソコンは持っていないという。本当に外界とのコミュニケーションがない生活のようだ。「外に出かける気にはならない?」という問いにも「理由がないですよね。」と下を向く。
 私は佐藤君の生活があまり他人事とは思えず、半田さんはこんな彼の心をどう開くのかと見ていた。

 話をしているうちにわかったのだが、実は佐藤君は、中学高校といじめられていたそうだ。なんとか自信をもちたくて、定時制高校に通いながら市民サークルで演劇を始めたのだが、そこも雰囲気になじめず厳しい稽古にネを上げて、1年あまりで挨拶をしないまま辞めてしまったという。劇団の人たちがみんな頑固で譲らず、佐藤君が気を使いすぎて胃が痛くなったりして辛かったという。
 「気持ちが長続きしないんです」という佐藤君に、半田さんが言った。

そういう性格やからって言ってしまったら、人間なんでもそれで終わっちゃうし。人間ってやっぱり環境に適応する。くさい部屋にずっといたら慣れるような感じ。もうひとふん張りしてみよ?

だが、佐藤君の苦悩は根深いようだった。

耐えすぎてて、もう我慢ができんようになってもうて、いざ誰かに相談しよ思っても誰もいなくって。それを考えると辛いですね。もしそういう人がいたら、嫌な事でも耐えれるんですけど・・・やっぱいないから。

うつむき加減に、上目遣いに話す様子に、彼の心の闇というか、長年抱えてきた孤独感がヒシヒシと伝わってきた。

 2日目、半田さんは、佐藤君が芝居をやっていたという公民館に行くことを提案した。佐藤君は「誰かに会いそうで怖い・・・。」と言う。車の中でもだんだん呼吸が荒くなり、ため息をつき、頭を抱え、平常心ではいられないようだった。しかし、いざホールに入り舞台に立ってみたら、その表情は一変した。姿勢がよくなり、顔が上を向く。目がキラキラと輝いて笑顔が出た。「うゎあ!なつかしい!」を連発しながら、説明して回る佐藤君は、それまでとは別人のようだった。

 心を許しだした佐藤君は、半田さんに辛い過去の話を始めた。

 (中学時代)、同級生とか後輩とかに脅しみたいな感じで帰り道によくいじめられた。ぜんぜん言い返せなくて、誰かにあたるしかなくて、親にしかあたるしかなくて。
 バイト行って面接行って仕事してるときに、たまたまその中学校のときの後輩がいたんですよ。それで結局すぐにバイトもやめちゃって。
 どこかにそれがあるんかな。なんか怖いんですよ。仕事とか行っても同級生とか会うんちゃうかなとか。

結局、今の佐藤君の性格を形成したのは、中学時代のいじめに大きな原因があるのだろうか。危害を加えた方は覚えてもいないのかもしれないけれど、その”いじめ”が、ある一人の人間の一生を左右するような事になるとは・・・私はちょっとショックだった。その日、半田さんは1日中佐藤君の思い出話に付き合った。よくここまで佐藤君の話を聞き出せたなあと、そんな半田さんにも感心した。

 3日目、半田さんは、「新しいものを初めてみた衝動の感覚っていうのを味わってもらいたくてさ。」と佐藤君を東京に呼び出した。新宿や原宿を案内したあと、公園に2人で座って話をした。この3日でずいぶん雰囲気の変わった佐藤君だったが、彼は言う。

明日兵庫に帰って急に変われるかって言われたら、変われない。どこかで安心感っていうんですかね。そういうのが自分の中で欲しくて。

わかるなあ。居場所っていうのか。一度傷ついてしまった心を抱えていると、何も変わらない事の安心さは計り知れないものがある。傷つくぐらいなら、変化なんかいらないと思ってしまう。
 半田さんは言った。

一気には変われへんよ絶対に。

私はこの言葉にちょっとハッとした。変わらなきゃ変わらなきゃと、一気に変わりすぎようと焦って、0から100にしないといけないと考えて、考えただけで勝手に絶望してしまっているのではないか。それをズバっと指摘されたような気がした。佐藤君もそれに気づいたようだ。

一気に変わろうとしすぎてるのかな、自分が。あれも欲しいこれも欲しいみたいな、いろいろ、友達なり芝居うまくなるなり・・・。自分に欲しいものが逆に多すぎて、それがプレッシャーになってたかもしれん。

これに対して、半田さんが言った言葉をきいて、不覚にも涙が出た。

 比べちゃいかんわやっぱり。自分は自分。比べ出すとね、俺もなんか今自信満々にしゃべってるように見えるかもしれないけど、比べたらそら不安なこといっぱいあるよ。そこはあえて目をそむけるって言うかな。そむけることによって伸びることってあるから。そんなん言い出したらキリがない。
 ただ、人間一人一人することも違うし、作り出すものも違うし、表現するものも、同じことは何一つない。それだけが救いやな。

そして「肩の力ぬいて自分のペースで、絶対に焦らないこと。ゆっくりのんびりと。」と呪文のように繰り返した2人。
 「自分が今までもやもやしてたこと言えたから、結構すっきりしました!」と言っていた佐藤君。寂しかったんだろうなあ。話の内容も大事だが、話を理解して本気で聞いてくれる人に出会えた事が、彼にとって大きな財産になったのではないかと思った。

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プロファイリングによると
 今日の「爆笑問題のニッポンの教養」は『プロファイリングによると…』というテーマで、犯罪心理学の桐生正幸先生を訪ねていた。桐生先生は、元山形県警科学捜査研究所主任研究官という、現場を知り尽くした経歴の持ち主。ヨン様みたいな風貌であった。

 犯罪心理学とは、犯罪者の心の動きや社会とのかかわりを研究し、防犯、捜査、犯罪者の更生に活用する学問だそうだ。中でも”プロファイリング”という捜査手法は、映画「羊たちの沈黙」で一躍世に知れ渡ったが、非常に地道な作業で、可能な限り科学ベースに乗ってやっている仕事だと桐生先生は言う。

 日本にプロファイリングが本格的に入ってきたのは、神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)からだという。日本で初のプロファイリングのレポートが提出された事件だったそうだ。『少年もありうる』と。
 すると太田さんは、『僕は最初からあの犯人は少年だと思っていた!』と言う。「さあゲームの始まりです」という表現が幼稚で、文章もどっかから借りてきたもののつぎはぎだらけ。あんな下手くそな文章をほめて調子に乗らせたらいけない、”下手くそだ”とちゃんと言ってやらなきゃだめだと憤っていた。
 桐生先生も言う。

 そこのところをきちんとやらないのは、マスメディアの功罪であると思うんですよ。あの文章を垂れ流し状態で流して、あえてマスメディアが”劇場型犯罪”にするかのようなことをやっている。犯罪そのものは質的に変わってるのに、ますます火に油を注いでいる感じがしてしょうがない。

確かに、テレビで特異な犯罪を流すと、決まって何件か模倣犯が現れる。それは、お金が目的などではなく、自分の表現としての模倣のようだ。「センス悪いんだよ!」とこてんぱんにやるべきだという太田さんの意見にも、うなずける。

 いろいろな殺人現場を見てきた桐生先生は言う。

 大半の犯罪者は普通の人と変わりないはずです。そういった生き物なんですよたぶん人間は。野放しになればたぶん、いろいろなことをしでかすのが人間だと考えたほうが、たぶん人間らしい。

今の犯罪学も犯罪心理学は、こうした『人間性悪説』に基づいているのだそうだ。

せいあく‐せつ【性悪説】

人間の本性は悪であり、たゆみない努力・修養によって善の状態に達することができるとする説。⇔性善説。
(大辞泉より 提供:JapanKnowledge

何をしでかすかわからない人間。であれば、とりあえず言葉で作ったルールで縛っておく、それが今の”法律”だ。けれども人間というのは、言葉だけでは説明しきれないところもたくさんある。実は犯罪というのは、それがどういうわけか形に出てしまい、それが法律で決めていた事にひっかかったものというところがある、と桐生先生は言う。その境界線が難しい。

 最後に、「なぜ人を殺しちゃいけないか」という、最近よくある子供の質問について議論が及んだ時、はじめ桐生先生は、この質問に否定的であった。

 あんなことを言わせておいてはいけない。大人ってあの質問をすると、しどろもどろで答えられないじゃないですか。殺されたくないから殺しちゃいけないとか、科学的に言えばどうだっていうことを言うんだけども、そもそも自然科学が関与するような場面じゃない。
 人間の生き死にに関することとか、殺していいかどうかっていうような問題は、もう一回今の時代の時代性に照らし合わせて考え直さないといけない。

すると太田さんは、この話に反対する。

 俺も「なんで殺しちゃいけないの?」って思っちゃう。何でか知りたい。「それは当たり前なんだ。」それじゃあ俺は、子供は納得しないと思う。俺も納得できない。
 それがおそらく、思考していく最初の始まりだと思うんですね。哲学とかそういうものの最初のはじまりなんだから、「そんなこと考えることがおかしい」っていう否定の仕方は、フタしてるような気がする。

確かに、wikipediaにも書いてある。

自己が死ぬことを知っているがゆえに、人間の哲学的営みは始まる。

だから”死”から目をそらしちゃダメなんだ。一生かけて考えなければいけない問題なんだよと、教えてあげなければいけないんだ。確かにそう思う。

 この意見をうけて、桐生先生は言った。

 殺人現場とか見て、現場の状況であるとか残された遺族であるとか、当然加害者もそうですね、誰一人として幸せになってる人はいないですよね。人を殺すことそのものが誰も幸せにしない以上、それはたぶんよろしくない事だっていうのが一つ。

相当、凄惨な現場を見てきたのだろうなと思った。説得力がある話だと思った。
 だが一方で、その後太田さんが指摘したように、『戦争による人殺しは続いていて、それによって平和になるって言う国がある』ような世の中で、”人を殺すことそのものが誰も幸せにしない”という話には矛盾もある。うーん、これでは一部の利己的な大人達のせいで、人殺しがいけないという話に説得力が欠けてしまう。理由がどうあれ、「人殺しはいけないんだ」と全世界の人が思い実行し、子供達の手本になるような世の中になって欲しいと、強く願った。

 最後の最後に、桐生先生が言った言葉が少しさみしかった。

古今東西、未来永劫、やっぱり犯罪はなくならないと思ってます。

だからこそ、人間としての不完全さを自覚して対応しなければいけないのだそうだ。