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人間性を表す言葉
2008.04.13 Sun 11:23 | エッセイ | 小説・文学

35歳をまわるとお母さんの羊水が腐ってくるんですよね。

と発言して謹慎していた倖田來未さんが、コンサートでファンに謝罪をして全国ツアーをスタートさせた、というニュースを聞いた。

 私は正直、冷めた目で彼女を見ている。以前エッセイにも書いたが、女性はわりと、”発言”と”人間性”を一緒のものとして考えがちな生き物だと思う。現実の生活の中でも、ある人の発言でショックを受けたりした場合、その人自身を、表面上は受け入れることができても、心で受け付けられなくなることが多々あるように思う。
 だから私は倖田さんの発言を聞いて、「ああそういう人なんだ」と思って少し引いた目で彼女を見るようになったのが正直なところである。
 そしてこの辺の気持ちは、「それはそれ、これはこれ」という考え方をする男性たちには理解できないらしいという事も、だんだんわかってきた。

 テレビで『きちんと謝ってるんだからアレぐらいのことで怒るのおかしい。』、『彼女のアーティスト性はまた別のものだから頑張ってほしい。』 などと言っているのは、男性コメンテーターばかり。うちの彼も、『これぐらいのことですぐ謝罪とかバカバカしい。』と言っていた。
 だが女性、とくに30代以上の女性は一様に渋い顔だ。
 倖田さんの発言で傷ついた人たち、不妊に悩んでいる30代の女性たちなどは、追い討ちをかけるように繰り返される男性陣からの、心ない”こんなどうでもいい事”呼ばわりで、さらに傷に塩を塗られている気持ちであろう。

 倖田さんのファンは最初から怒っていないだろうし、ファンに謝罪といってもよくわからない。
 一般の女性も、個人的に言われたわけではないのでわざわざバッシングする必要もないだろうが、ただ彼女の人間性を生理的に受け付けなくなる人が何人かいて、曲が前ほど一般ウケしなくなるかもしれないなと思うだけだ。

 ちなみに、よく比較されることだが、これは刑事事件を起こして復帰してきた歌手とは何となく意味あいが違う。刑事事件は、それなりに服役して罪を償えばいいかなと思ったりもする。だが、人間性を表す言葉というのはなかなか忘れられないというか、一生その人について回るように思えるのだ。うーん、女心は難しい。

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編集された報道
2008.04.13 Sun 10:57 | エッセイ | 小説・文学
 1日中テレビばかり見ていると、特にニュースで同じ情報ばかりが繰り返し流されていることに気づく。

 今で言えば、北京オリンピックの聖火リレーのニュース。
 どこの局もみな、コメントは一緒。チベットに自由を!中国では偏った報道がされている。でも暴力で聖火リレーを妨害するのはいけない。日本政府や日本仏教界は何をしているのか?・・・などなど。まったくそのとおりで異論はないのだが、あまりにもみんなが同じ事を言うので気持ちが悪い。
 さらにネタがなくなったテレビ局は、なぜか街頭インタビューに出て「聖火リレーをどう思いますか?」と一般市民に聞く。帰ってくる答えは、コメンテーターの受け売りのような意見ばかり。あまりにも皆が同じ事を言うので、みんなそう思っているんだな、とますます思うようになってくる。

 以前、糸井重里さんも言っていたが、今の時代ポリティカル・コレクトネス(political correctness=政治的な観点からみて差別や偏見のないこと)という言葉があるぐらいで、正しいことを言うように義務付けられているから、こうなるのだろうか。

 私たちは、世界の出来事をいちいち、自分の足で歩いて行って自分の目で見ることができない。私たちが見せられている映像は、テレビ局が編集した映像で、それも朝から晩まで繰り返し繰り返し同じ場面を見せられている。同じような意見を聞かされている。実はこれも、ある種の洗脳なのではないか。
 聖火リレーのニュースで言えば、中国やイギリスの報道の中には、『聖火リレーは大成功』と言っている報道もあるとかないとか。そういう意外な話を、日本の報道の中から聞くことは難しい。

 私は最近、情報源を1つにすることの怖さを感じている。”勧善懲悪”の姿勢も怖いと思う。常に悪者を探してみんなで叩こうとする姿勢が怖いと思う。
 善は悪になりうるし、悪は善になりうる。人が切り取って”編集”した情報をうのみにせず、いろいろなものの見方をできる人間になりたいと思った。