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樹海
 精神的に不安定のまま、予約していた心療内科へ行った。

 珍しく待合室に人がいた。4人もいた。私は他人を目にすると、無意識にその人の思考を探ってしまう。それが嫌で、私は目をぎゅっと閉じた。すると脳裏に、松井冬子さんの絵が現れた。内臓が飛び出た女性の絵・・・あの絵は、強烈なショックを私に与えたようだ。
 そして突然、『今ここで腹を切り裂いて内臓を出してしまいたい』、そんな衝動にかられた。精神を病んでいる人たちばかりの中でも、私はこんなにすごい狂気を持っているんだぞと、見せびらかしたい衝動にかられた。
 だが、たぶんまったく実行する気はなかったのだ。できないとわかっているから、頭の中で何を考えても自由だと思ったのだ。

 帰り道、高いビルを見て『あのビルから飛び降りたら死ねるかなあ』と思った。すごい勢いで走りすぎる車を見て『あの車の前に飛び出たら死ねたかなあ』と思った。
 でも、やはりまったく実行する気はなかったのだと思う。涙は出たが、勇気は出なかった。

 死に対するリアリティがない。生に対するリアリティもない。体も心も、フラフラふわふわと浮遊していた。

 なんとか無事に家に着き、たまたまつけたテレビのニュースで、年間100体を上まわる死体が発見されるという”青木ヶ原樹海”の特集をやっていた。(FNNスーパーニュース『樹海が語る生と死』)
 現地を案内していた早野梓さんは、青木ヶ原に来る自殺志願者についてこう指摘する。

死にたくないんですよ。声をかけられるのを待っている。迷っている人が多いですね。

そして番組のカメラは、樹海の奥へと入っていく一人の女性を発見した。スタッフはたまらず「大丈夫ですかー?」と大声で呼びかける。40代前半と見られるその女性は

出口わかんなくなっちゃって・・・。すいません。

と、スタッフの呼ぶほうへふらふらと歩いてきた。
 スタッフが『聞きづらいお話ですけど、お悩みがあってきたんじゃないですよね?』と切り出すと、彼女は笑って答えた。

そんなことはないですよ。”気分転換”になるかなと思って来たんです。

だが、彼女の格好は都会的な装いで、とても樹海を散策する格好ではなかった。『失礼と思いながら声をかけさせていただきました。』、『かえってご迷惑をおかけしました。』というスタッフに

とても助かります。自分からは声をかけにくいじゃないですか。ありがたいと思います。
今日はたまたまそういう気になっちゃって。一人だと不安になっちゃって。
本当にありがとうございました。

とお礼を述べながら帰っていった。

 誰か私に声をかけて。人ごみという樹海をフラフラ歩いている私に気づいて。

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孤独の思考
 半日ネットがつながらなかったので、私は久しぶりにゆっくり瞑想をした。でも相変わらず、どんどん思考が暗いほうへと落ち込んでしまい、自分をコントロールするのがむずかしくなった。
 鬱々とした気持ちを外に出す方法は、私にとっては文章しかなかった。

 せっかく書いた文章なので、転記しておく。



 うつ症状が治るにつれて、私はまだ他の人よりマシだと知るたびに、複雑な思いに駆られる。

 『前より確実によくなってるよ』、『元気になってよかったね』。そんな事を言われるたびに、ごめんなさいと思う。そして心の中では 『本当はまだ治っていない』、むしろ『治りたくない』とすら思う。

 私は自分が幸せになってはいけないと思っている。それがなぜなのかはわからないが、強くそう思っている。幸せだと思われることを拒んでいる。そしてたぶん、幸せである人を憎んでいる。
 だからこそ、今朝見たETV特集でふと耳にした社会学者の上野先生の言葉にハッとした。

幸せになることも、ためらわないでください。

どう考えれば、そんな風に物事をありのままに受け入れる事ができるのだろう。幸せになればなるほど苦しくなる。ごめんなさいと思う。自分を傷つけたくなる。だから生きててごめんなさい、生まれてごめんなさいと、毎日毎時間毎秒思っている。

 こんな私が幸せを幸せとして受け入れ、かみ締める日はくるのだろうか。



 先月、買ったばかりの高価な夫婦湯呑を落として割ってしまってから、私はお茶も飲めなくなっていた。お茶のことを考えるだけで吐き気がしそうだった。

だから気をつけなさいってあれほど言ったのに!

そんな声がどこかから聞こえてくる。ごめんなさいごめんなさい。謝っても許してもらえない・・・そんな幼い日の記憶がよみがえる。

 日曜日に彼と買い物に行き、新しい湯呑を買った。やっとお茶を入れる気になって、私たちは久しぶりに熱いお茶を飲んだ。『覆水盆に返らず』と言う言葉があるように、割れてしまった皿は元には戻らないが、こうしてまた買いかえればいいんだ。珍しくそんな風に思えた。

そのおかげで、またいいものも見つかったしね。

彼は、私を責めずに、そう言って笑った。
 けれども私は、優しすぎる彼の言葉と裏腹に、ふとそれまでの間の事を思い出して泣きそうになった。なんと苦しかったことか。

 いまや、モノや環境なんてあって当たり前。そしてそれらを次から次へと変えていくことを、何とも思わない時代だ。でも私はどうしても、そうした変化に適応できない。失われたモノへの思いを残してしまう。だからこそ、無くしたときの喪失感が耐えられない。見放された孤独感が耐えられない。自分を責めてすごす。自分の犯した過ちを責めてすごす。

 今日ネットがつながらなくなったのも、私がモデムを壊したせいだ。
 ネットも電話もつながらないのは、ネットも電話もつながるけれども使わないのとは、訳が違う。なんという孤独感。マンションの隣の部屋からはピアノの練習曲が聞こえてくるが、私が今ここで大声で叫んでも、たぶん私の声は向こうには聞こえないだろう。

 私は孤独の宇宙の中をただよっているような気がした。苦しい。酸素がない。息ができない。苦しいよ。早く来て。

(回線復旧後に転記)

モデムが壊れました
2008.04.21 Mon 18:24 | ネット依存症 | 心と身体
 実は、朝、松井冬子さんの記事を書いた直後、モデムが壊れた。正確に言うと、壊した。アロマポットの水がこぼれて、モデムにかかってしまったのだ。ほどなくしてネットが切断されてしまった。光IP電話もつながらない。

 さあ困った。こんなとき、携帯電話があって本当によかった。携帯電話がなかったら、外部との接触が立たれてしまったら、私は大都会の難民になるところだった。
 あわててNTTに電話をしたら、午後には業者さんが来てくれるという。今日は朝からめまいがして調子が悪く、本当は知らない人を家に入れるなんてお断りの状態だったのだが、そうも言っていられなかったので、すぐにお願いした。

 何時に来るかわからない業者さんを待って、私は時間をもてあましてした。ブログの更新をしよう。家賃の振込みをしよう。母の日のプレゼントを贈ろう。思いつく事がみな、ネットがなければできない事ばかりだった。
 ネットがあってあたりまえの生活。ネットがなくなった私は、何をすればいいのかわからなかった。
 昔は楽しかったテレビも、どこか楽しめなかった。私の気持ちを表現することができない一方通行のメディアに、今さらながらむなしさを感じた。

 耳が聞こえない。目が見えない。どこへもいけない。まさにそんな感覚だった。ほとんど引きこもって生活している私にとって、いまや五感と並ぶ体の一部ととなってしまったネット。こんな私は、やはりネット依存症なのだろうか。

(回線復旧後に転記)

松井冬子の世界
2008.04.21 Mon 09:37 | ドキュメンタリー | テレビ・ラジオ
 「ETV特集」で『痛みが美に変わる時~画家・松井冬子の世界~』を見た。

 私はお恥ずかしいことに、美術の世界はまったくわからない。松井さんの事を存じ上げなかったのだが、いま若い女性を中心に大きな支持を集めている、新進気鋭の日本画家だそうだ。
 しかしその絵は、内臓や剥がれた皮膚、骨など、一見痛々しくも見えるモチーフがしばしばあり、どれもグロテスク。松井さん独自の情念の世界が展開されている。

松井さんの代表作 『浄相の持続』 
jyosonojigoku.jpg
松井冬子 一 MATSUI FUYUKO I

 ”浄相”とは、仏教では煩悩を脱したさまを意味する。微笑をうかべている女性は、自らの腹を切り裂き、子宮を見せびらかしている。男性へのコンプレックスや憎悪を表している作品だという。

 社会学者の上野千鶴子教授(東京大学)との対談が興味深かった。女性の立場から社会のゆがみを分析し、さまざまな問題提起をしてきた上野先生は、松井さんの絵を ”自傷系アート” と呼びこう分析する。

 この人には何かあったんだろうなあということは想像はできるんだけれども、確実にオーディエンス(観客)として伝わってくるのは、描かれているものの痛みとか、呪詛とか苦痛とか、そういうものが確実に伝わってくるんですね。だからそれはこの人の中にあるものが、こうやって表現の中に現れるのだろうと思う。
  :
 ここに描かれているのは、女の痛みであって、抽象化された人間の痛みではないと思うんですね。私たちの業界の言葉でいうと”ジェンダー化された痛み”って言うのね。
 絵画の批評家の方たちは男性が多いから、そういう方たちに”人間の痛みが描かれている”って、そういう解釈されたら本当に嫌だなと思っていて。ジェンダー化された痛みはジェンダー化された痛みとして、受け取るべきだと思うんですね。

ジェンダー(gender)とは、「男らしさ」や「女らしさ」の規範となっているような習慣や態度や役割などによって決定される「社会的・文化的な性のありよう」のこと。「先天的・身体的・生物学的性別」を示すセックス(sex)とは区別して用いられる言葉である。

 とすると松井さんの絵は、女性だからこうであたりまえ、女性はこうあるべき、そんな社会の檻に閉じ込められ、ときには存在を無視されて苦しみもがいている女性の代弁なのか。なるほど、そう思って松井さんの絵を鑑賞すると、非常に共感するものがある。

上野 「男性はあなたの絵を見て何を受け取るの?」
松井 「嫌がってる人は時々いますけど。見れないといって目を背ける人。」
上野 「それはあなたの狙い通り?」
松井 「狙い通りですね。それ見たことかと。」
上野 「じゃあ、女性は何を見てると思います?」
松井 「よくやってくれたって言われたことがあって、それはすごく嬉しかったですね。理解してもらえてるなと思いました。」

男性はこんな女性の本音を、どう思うのだろうか。
 いつも男性はなにかと私たちのことを「考えすぎ」とかいって相手にしないが、この対談を聞いていると、男性が女性のそうした気持ちの存在を無視するのは、相手にしていないのではなく、見たくないから無意識のうちに目を背けているだけなのではないかとさえ思える。

 『自分の中で篭っているものを吐き出さなければ、絵という表現の方法を持たなかったら、どうなってたと思います?』 という上野先生の質問に、松井さんはあっけらかんと笑いながら答えた。

死んでると思います。自殺してます。ヘタレだから自殺できなかったていうのもあったんですけど。

上野先生はそんな松井さんに、幸せになってほしいと言って優しく手を握った。

 ベタなこと言うけど、人間、不幸せになるために生きてるわけじゃないんで、たぶん幸せになったらなったで、また別ないい作品がうまれると思いますよ。
 想像がつかないほど人間って変わりますから、だから幸せになる事もためらわないでください。

 「はい」とケラケラ即答する松井さんに、『幸せなんて信じない』という松井さんのあきらめのような深い思いと、そこはかとなくただよう儚(はかな)さを感じた。それはどこか、自分に似ていた。