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救急車の使い方
2008.04.23 Wed 21:58 | ドキュメンタリー | テレビ・ラジオ
 「クローズアップ現代」を見た。昨日から2日連続の”シリーズ救急の現場”、今日は2日目の『救急車が来なくなる?~見直しが迫られる119番~』というテーマだった。

 救急搬送される人の数は、平成に入ってから20年の間に、高齢者との増加ともあいまって2倍になったという。しかしその一方で、救急隊員の数はほとんど増えていない。入院可能な救急医療施設も、ここ数年のあいだ減少する傾向が強まっている。増え続ける需要に対し、救急搬送をどう有効に活用するべきか?というのが、今日の内容であった。

 日本では、現場に急行した救急隊が重篤度を判断して搬送先を探すシステムになっている。交通事故が中心だった時代には有効だったが、最近では重篤度の判定が難しい内科疾患が増加しているために、たらい回しなどの問題が起きているという。
 たとえば急病人の場合、患者を収容しても救急車はすぐに出発せず、救急救命士が質問する時間が長い。原因はなにか、緊急度はどれぐらいか、どこの病院に搬送するべきかを探らなければならないからだ。そのため、病院に着くまでの時間は、平成に入って平均10分も延びているという。

 さらに119番通報を利用する側の問題もある。
 昨年6月、東京消防庁が救急車を呼ぶ前に相談できる窓口 ”救急相談センター” を設けた。それによれば、救急車を呼ぶか迷った人の内訳は以下のとおりであった。

救急相談の結果(複数回答) (平成19年6月~平成20年1月)
  • 実際に救急車が必要だった ・・・ 12.8%
  • 医療機関を案内 ・・・ 48.9%
  • 応急手当を指導 ・・・ 11.7%

こうした緊急性の低いケースが、119番通報にもあると考えられる。

 東京消防庁では、年々増え続ける119通報に対し、新しい制度を試験的に導入しはじめたそうだ。それは現場でのトリアージ、”救急搬送トリアージ”という制度である。
 救急車は派遣するが、現場で緊急度・重症度を判断し、あきらかに緊急性がない場合は相手の同意があれば引き返す、というこの制度。救急車の出動回数を減らすために導入するわけではなく、緊急性が認められない場合には救急車が運ばないこともあるということを、都民に理解してもらうための試験導入だという。

 しかし、実際に救急車が引き返したのは、半年間でわずか100件(0.02%)にすぎなかった。救急隊員にとっては現場で断ることの難しさがあり、また、自分より急ぐ人がいるという事をイメージできない住民側の意識の問題もうかがえる。



 そういえば私が住んでいる横浜市でも、『平成20年10月から横浜の救急が変わります!』というガイドブックが配られた。119番通報で、症状などを詳しく聞かれるようになるそうだ。救急車が必要でない場合は、看護師さんによる救急相談サービスに切り替えることもあるという。

 私は、これはとてもいいことだという。なぜなら、そのガイドブックに書いてあった。『もう一度考えて見ましょう!救急車の使い方』を見て、愕然としてしまったからだ。(一部抜粋)

すぐに救急車で行く必要がありますか?(これらは実際にあった事例です)
  • 昨日飲みすぎた
  • 食事中に舌をかんだ
  • 紙で指先を切った
  • 蚊に刺されてかゆい
  • 深爪をした
  • 虫歯が痛い
こんなとき、救急車は使えません(これらは実際にあった事例です)
  • 病院でもらった薬がなくなった
  • 今日入院予定日だから、病院に行きたい
  • 病院に電話したが、つながらない
  • となりの家の人がさわいで、うるさい
  • 寒いから灯油を買ってきてほしい
  • ペットの具合が悪い

こんな電話が実際にあったとは驚きだ。タクシー代わりや相談代わりに119番通報をする人のせいで、本当に緊急に救急車を必要としている人への対応が遅れる危険性もあるというのに。
 私たち住民側も、『税金払ってるんだからサービスしろ!』などと言わず、一人でも多くの命を救うための”救急搬送トリアージ”という意識を各個人が持ち、協力していきたいものだと改めて思った。



トリアージ(triage[仏]:選別) ・・・ 一般的に人材・資源の制約の著しい災害医療において、最善の救命効果を得るために、多数の傷病者を重症度と緊急性によって分別し、治療の優先度を決定する方法。

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哲学を破壊せよ
 「爆笑問題のニッポンの教養」で『哲学を破壊せよ』の回を見た。
 哲学的な考え方が好きな私でも、たまりたまっていた睡眠不足のせいもあり途中で寝てしまうような、少々小難しい話であった。

 今回爆笑問題の2人がたずねた先生は、西洋哲学の権威となった79歳の今も、“反哲学”を唱え通説をひっくり返し続ける破天荒な哲学者、木田元名誉教授(中央大学)。

 木田先生が哲学を志すようになったのは、ハイデガー(ドイツ)という哲学者の『存在と時間』という本に出会ってからだという。ドフトエフスキーにのめりこんで自分の不安をごまかしていた青年時代の木田先生は、同じくドフトエフスキーやキルケゴールの影響をうけたハイデガーの著書を、どうしても読まなくてはいけないと思い、哲学を学ぶことにしたのだという。

 だが、木田先生がハイデガーの論文をはじめて書いたのは、それから33年後の事だった。それほど難しい本には何が書いてあったのか。

 ハイデガーと言う人が本当に考えていたのは、西洋の文化形成---プラトン、アリストテレス(紀元前5世紀)のあたりから始まって、ヨーロッパの近代につながっている西洋の文化形成---の原理みたいなものを、批判しようとすることを、初めからどうも狙ってたんですね。


 そもそも、西洋の文化形成とそれに伴う技術文明によって覆い隠されてきた”生きた自然”みたいなものの復権を、最初に言い出したのはニーチェだったそうだ。
 ニーチェが言っているのは、完全不滅の”イデア”とか”超自然的原理”なんてないんだということ。そんなものそれを前提にして考えると、”自然”が”超自然的原理”によって好き勝手に形を与えることのできる、単なる無機的な材料ということになってしまう。だからこんな技術文明を生んだのではないか。神がモノを作ったのとまったく同じように、人間がまるで神的な原理を授けられている代理人みたいにモノを作って、自然支配の主人公になってしまったのではないかと。

 われわれ日本人は古来から、全てのものはおのずから生成してきて、変化して消滅していくと考えているので、キリスト教と結びついたプラトン主義の考え方より、生命の秩序みたいなものをちゃんと評価していこうというニーチェの考え方のほうがわかりやすいだろう、と木田先生も爆笑問題もうなずく。

 ニーチェにしてもハイデガーにしても、”生きた自然”ってヤツをもう一回復権しよう、そういう意味での一種の文化革命みたいなことを考えたわけですよね。


 ところで、そんな木田先生は、自らのことをペシミスティック(悲観主義、厭世主義)だと言う。太田さんは、そんな先生にくってかかった。

 そこまで考えた人が、悲観的になって死なれちゃ困ると思うんだよね。我々の先に、悲しみしかないって思っちゃうんだから!

それに対して木田先生は、のんきに笑った。

 あ、そっか。そうだよね。でもそういうもんじゃない?皆さんお気の毒に。

けれども、木田先生の言葉は、決して嫌味な言い方ではなかった。

 人生の不安や絶望を解消するために、哲学書を読みあさり、語学を勉強することでごまかしながら木田先生がたどり着いた境地。それは”絶望は一生ついてまわるかもしれないようなもんだ”という悟りのようなものだったのかもしれない。

 哲学を否定しても、こっちだけが正しいとは言い切れないところがあって、行ったり来たりしているうちに、見えてきたものがたくさんあると思ってる。

来るべき自分自身の”死”から目を背けずに悩み苦しむことは、死へ望む存在としての自分の生き方を考えることは、それ自体が生きていく上で本当に大事なことなのかもしれない。