部屋にあふれかえる物、足の踏み場もない床。こうした汚い空間で何一つ気にせず暮らすなど、日常生活においてある部分だけがズボラな女性がいま少なくないという。こうしたケースで最悪の場合、”注意欠陥障害”と診断されることもあるという。
私も今回の話は、他人事ではない気がした。私の部屋も実に汚い。片付けることができない。というか、無視している。リビングやキッチンは、比較的片付けているほうだと思う。けれども自分の部屋だけ、どうしても片付ける気がおきないのだ。外に行くときに洋服を選びに入るだけ。むしろあまり見たくない。なんでだろうとか、考えたこともなかったが・・・。注意欠陥障害
同じミスを繰り返すなどの軽度発達障害の一種。
今回紹介された女性は、あとから検索してわかったことだが、ブログや本
夏目さんは、会社ではマーケティングなどの仕事をてきぱきとこなす女性であるが、父親と2人暮らしの4LDKのマンションで自分の部屋2部屋だけ荒れ放題だったという。放置することなんと10年間。昨年、夏目さんは一念発起して、10ヶ月かけてこの部屋を片付けたそうだ。ゴミの総量は、ゴミ袋112個分5040リットルにも及んだという。
実は、夏目さんが部屋を片付けられないのには理由があった。この2部屋は亡くなったお母さんと、相次いでなくなったお姉さんが使っていた部屋だったのだそうだ。夏目さんは、汚い部屋に対する思いをこう話した。
つまり、悲しみを無理やり遠ざけるうちに、思い出がつまった部屋の事も意識しなくなった、意識の外に追いやってしまっていたのではないかという。まぁ汚いと言う自覚はあったけど、それがどうこうって掘り下げて考えることしなかったから。あとやっぱり、私は本当に自分の部屋に興味がなかったんですよね・・・全く。
そんな彼女に部屋を片付けさせるきっかけを与えたのは、お父さんの一言だったそうだ。二人の死から十数年がたったある日、お父さんは夏目さんに言ったという。
夏目さんは、お父さんの一言で、初めてその目で現実を見ることを決めた。『母も姉ももういない。』そんなわかりきったことにようやく気がついたそうだ。ようやく受け入れられたそうだ。もうそろそろ、2人のいない2人っきりの暮らしに慣れないといけないね。
コーナーはこういう言葉でしめくくられていた。
女たちが片付けられないもの。ひょっとするとそれは、自分の部屋だけではないのかもしれない。
私は、自分の部屋が汚い理由も、なんとなくわかった気がした。社会人としてバリバリ働いていたときの荷物が、そのまま残っている部屋。スリムな自分のスーツがたくさん残っている部屋。その部屋に積み重なった荷物を直視できない今の自分。
自分の現実と向き合ったときに、初めて古い思い出を捨てることができるのだろう。部屋を片付けることができるのだろう。いつになることだろう。
今、「夢をかなえるゾウ
ゾウの姿をした神様が会社員の「僕」に様々な課題を出し、目標達成に導くという内容だ。他の啓発本にない特徴は、“笑い”を取り入れた点。神様と僕が漫才のような会話を交わしながら話が進んでいく。
(番組ホームページより)
正直、私は”自己啓発”という言葉が好きではない。うつ病になって引きこもるまでの私は、今考えても、毎日を完璧に生きようとしていた。手抜きができない性格だった。友人たちとふざけていても、いつもその瞬間何をするのが最適なのか、考えながら行動していた。
だから20歳を過ぎたいい大人が、得体の知れないセミナーや本に感化されて”自己啓発”と騒ぎ出すのを、冷ややかな目で見ることが多かった。毎日を真剣に生きていれば、突然そんな事を言い出す必要もないと思っていたからだ。
この特集コーナーを見ていても、『本を読んで自分を変えようと取り組む人々』が何人か出てきていたが、ふーんと言う感想しか持たなかった。みんな前向きでいいなぁとしか思わなかった。
むしろ、神聖な神様の象徴である”ゾウ”が、なぜ変な関西弁なのか、そんなところがひどく気になった。
だが、最後にふと心に響くフレーズがあった。
これはまいった。私は痛いところをつかれた気がした。「本気で変わろ思たら、意識を変えようとしたらあかん。意識やのうて「具体的な何か」を変えなあかん。具体的な何かをな」
そう、本当はわかっている。私は自分で「自分を変えたい」と強く思ったことはない。だがそれは、現状に満足しているのではなく、ただ単に自分を取り巻く環境か何かの方に「変わってほしい」と、他力本願に思っているだけなのだ。そして、そんな願いがそうそう聞き届けられるはずもなく、勝手に人生に絶望しているだけなのだ。
けれども、このフレーズを聞いて、だからといって無理に自分の”意識”を変える必要もないのかと思った。自分の心を形成する根っこの部分なんて、簡単に変えられるものではない。むしろ、まず物理的に何かをしてみることで、あとから自分の無意識の部分が自然に変化していくものなのかもしれない。そしてこれまでだって、知らず知らずのうちにそうやってきたからこそ、今の私があるのかもしれない。
頭でっかちに考えるより、まずやってみる。やってみて、もし自分には不必要だとわかったら、やめればいい。
今のうつ病の私には、体を動かしたり外に出たりすることは、とても大変なことだ。だが、このゾウが教えてくれる話の中で、ひとつだけ私にもできそうな事があった。
「これからはな、毎日寝る前に、自分がその日頑張れたこと思い出して「ようやったわ」ってホメや。そうやってな、頑張ったり成長することが「楽しい」ことなんや、て自分に教えたるんや」
困っている人がいると、声をかけずにいられない。そして一度首を突っ込んでしまった事を、他人に任せることができない。その全てを別個の問題として、切り離して並列に処理しようとする。
考えただけで、オーバーフローするのがわかる。私が何人いても足りない。自分の精神状態だって、他人の世話を焼いている場合ではないというのに、今、私は一人でパニック寸前だ。
私がいなければダメなんだと思うなんて、なんという思い上がりなのだろう。実際のところは、”私がいなければダメ”なのではなく、私を頼ってくれる人がいなくなると”私がダメになる”のである。だから私は、いろいろな人を精神的につなぎとめておこうとしているだけなのある。みんなにいい顔をするのである。
でも、だからと言って、見て見ぬフリなんてできないんだ・・・
何から手をつけたらいいのかわからない。優先順位がわからない。社会的な優先順位と、自分の中の優先順位がわからない。
頭が破裂しそうで動けない。
そこの先生は漢方も積極的に取り入れている先生で、体重増加に関しては以前から知る人ぞ知る”防風通聖散”を処方してもらっていた。今回はあわせて”当帰芍薬散”という漢方を処方してもらった。ネットで調べると、作用は以下の通り。
これで、めまいや頭痛が少しやわらぐとよいのだが。体をあたため、貧血症状を改善する漢方薬です。
体の疲れ、冷え性、貧血症状、生理不順、生理痛、生理前後の不快症状、不妊症、むくみ、頭痛、めまい、肩こり、更年期障害などに広く適応します。
(おくすり110番より)
飲んでみたら口当たりがよかったので、これは効きそうな気がする。先生いわく、漢方は人によって合う合わないがあり、『苦い』、『まずい』などと感じる薬はその人には効かない事が多いのだそうだ。
昨日はほぼ1日中朦朧とした状態で、今日も雨のせいか気分が上がらない。かといって眠いわけでもないのだが、横になると気がつくと寝てしまう。 着替えるのも、お風呂に入るのも億劫だ。
こんなときに限って、母からランチの誘いがきたりする。それを断ってしまった私は、また母から見捨てられるのではないかという無意識の恐怖と嫌悪感にさいなまれる。
もう最初から、私なんかいなかった事にしてくれないか。
出口先生は、シミュレーションは新しい”言語”だと、コミュニケーションのツールだと言う。
私も卒論の題名に”シミュレーション”が入っていたほどで、昔は複雑な数式を作り上げてシミュレーションにあけくれていた時代もあった。だがそれは非常に断片的なシミュレーションでしかなく、結局実用的ではなかったなと今では思う。出口先生のお話を聞いていたら、私には全体像を理解する考えが欠けていたのだろうなと思った。なんとか社会を語る言葉を作っていきたい。数学ではなかなか語りきれない。シミュレーションっていうのはやっぱり新しい言葉なんですよね。その言葉を使っていろんな事を語れる時代になってきた。
しかも単に絶対的な事実を語るオラクル(神託)みたいなものを下すものではないんですよね。人間もやっぱり脳内で議論して、明日どうやろうとか数年後どういうシナリオになるとか、必ず頭の中でシミュレーションやりますよね。そうやって予想して、それを言葉でお互いにやりとりする。
当たる当たらない問題じゃないんですよ。可能性の全体像みたいなものを理解するもの。
これに対して太田さんは、シミュレーションの作り出すイメージと、実際に生きている人たちの動きとのギャップについて、どこまで先生を信頼していいの?と疑問を投げかけた。医者は医学的知識しかないし、都市の専門家は都市のことしかわからないし、役人は役人の事しかわからない。それを全部つなぎ合わせて、総合的な像を提供することによって、何が問題なのか何がボトルネックなのかを対話できるような場を作り上げる ──っていうのが僕はシミュレーションをもっている非常に大きな意味だと思うんです。
結局、コミュニケーションの道具だと考えたいんですね。
先生は『その通り』とうなずきながらも、こう言った。
確かにその通りである。あれをしたいからこう言おうとか、これを言ったらどうなるとか、私たち個人個人の脳内シミュレーションによる結果である”言葉”。他人のそれをどこまで信用できるのかは、その人の、いかに相手に伝わりやすいように見える形で示すことができるかという、”言葉”の組み合わせ能力にもよる。そういう意味ではシミュレーションっていうのは、当然偽物っていう議論はあるわけですよ。その意味では、シミュレーションって基本的に信頼ならんのですよ。
ただそれを言ったら、我々が使う言葉も頼ってはいけないんだけれども、言葉こそすべて。我々の脳の中で動く唯一の言語ですから、それはすべてなんですよね。
今は誰でもインターネットの上で、もし賛同さえ得られれば、資源まで集めて大きなプロジェクトができる時代になってきた。そういう世界でおもしろいゲームをやって、まさに”創発(そうはつ)”がボンボン起きるような場所が、そこにはある。
だが、社会の中で新しい言葉を投げ込む責任はものすごく重いし、その言葉を社会が受容して使いこなせるようになった時には、これを信じてはいけないと、先生は言う。
歴史上を見ても、理想どおりに社会が進めるかどうか、失敗してものすごく悲惨なケースになるか、それはまさに紙一重。それをどうやって判別していくかが、社会科学者の腕の見せ所なのである。
と同時に、あちこちから降ってくるいちいち”言葉”に踊らされずに、それを理解し判断する目を、我々一般市民も身につけたいものだと思った。