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2008.05.25 Sun 13:50 |
うつ病(鬱病)、メンタルヘルス |
心と身体
私は、病気のせいかあまり家事ができない。
夕食も作っていないのに、帰宅した彼の足元にゴロゴロ寝転がって話をしたりしていると、ふと思い出すことがある。
私には3つ年上の姉がいる。私たちは2人とも同じキリスト教系の学校に通っていた。
その学校では、”道徳”の授業のかわりに”聖書”という授業が週一回あった。聖書の話を読み、そこから倫理や道徳を学ぶ授業だった。
聖書で有名な話の一つに、『マルタとマリヤ』という姉妹の話がある。
だが、うつ病になってから、細々とした事ができなくなった私は、今まさにマリヤのようだなぁと思う。病気という大義名分をふりかざして、体はほとんど動かさなくなった代わりに、人の話を聞くことだけは上手になった。というか、それしかできない。
私も、この『マルタとマリヤ』の話を最初によんだとき、姉マルタに同情した。多くのことに心を配って思いわずらいして何が悪いのか。それに気づいてもらえず、感謝もされず、逆に叱られるとは、あまりにも報われないではないか。
だからこそ、今マリヤのようになってしまっている自分が情けなく、キライだ。あのとき言われた「ただ単にサボってるだけじゃない!ずるい!」という姉の言葉が、心に去来する。
と同時に正直に言えば、このイエス様の言葉を利用して、今の自分の状態でも『これは良いことなんだ』と正当化しようとしている、自分の中のその狡猾さが、もっとキライだ。
夕食も作っていないのに、帰宅した彼の足元にゴロゴロ寝転がって話をしたりしていると、ふと思い出すことがある。
私には3つ年上の姉がいる。私たちは2人とも同じキリスト教系の学校に通っていた。
その学校では、”道徳”の授業のかわりに”聖書”という授業が週一回あった。聖書の話を読み、そこから倫理や道徳を学ぶ授業だった。
聖書で有名な話の一つに、『マルタとマリヤ』という姉妹の話がある。
この話を知ったとき、姉は私に言ったのだ。一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言葉(みことば)に聞き入っていた。
ところが、マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におっしゃってください」。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良いほうを選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
(ルカによる福音書第10章38-42節)
私は、マリヤが自分のようだとは思わなかったが、姉からしてみれば、「お姉ちゃんなんだから」と言ってなんでも我慢させられている自分と、「まだ小さいから」といって甘やかされている私とを、常日頃からこのマルタとマリヤのように感じていたのであろう。これってうちの姉妹みたいだよね。ぐりえちゃんはいつもママのご機嫌ばっかりとって何にも手伝ってないのに、それでも怒られないの。ただ単にサボってるだけじゃない。ずるい。それなのに妹の方が良いなんて言うイエス様はひどい。
だが、うつ病になってから、細々とした事ができなくなった私は、今まさにマリヤのようだなぁと思う。病気という大義名分をふりかざして、体はほとんど動かさなくなった代わりに、人の話を聞くことだけは上手になった。というか、それしかできない。
私も、この『マルタとマリヤ』の話を最初によんだとき、姉マルタに同情した。多くのことに心を配って思いわずらいして何が悪いのか。それに気づいてもらえず、感謝もされず、逆に叱られるとは、あまりにも報われないではないか。
だからこそ、今マリヤのようになってしまっている自分が情けなく、キライだ。あのとき言われた「ただ単にサボってるだけじゃない!ずるい!」という姉の言葉が、心に去来する。
と同時に正直に言えば、このイエス様の言葉を利用して、今の自分の状態でも『これは良いことなんだ』と正当化しようとしている、自分の中のその狡猾さが、もっとキライだ。
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