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シバンムシ再来
2008.06.26 Thu 07:55 | 日記 | 日記
 いやな季節がやってきた。タバコシバンムシの季節だ。
280px-Drugstore_beetle_01.jpg←カブトムシを小さくしたようなこんな虫

* 大きさ 2.5mm前後
* 時 期 6-10月
* 分 布 北海道・本州・四国・九州・沖縄
人家内でよく見られる、茶色の小さな甲虫。体には光沢がある。
幼虫は、穀粉、タバコ、菓子類などを食害する。世界各地に分布している。

昨年大発生してその存在を初めて知った私は、生態を調べた。冬には幼虫を捕獲する作業におわれ、小麦粉や片栗粉や乾麺など発生源になりそうなものは全て捨てた。これで我が家のシバンムシは絶滅したかと思っていたが、この2~3日で10数匹は見かけたのだ。

 私は大発生する前に何とかしなければと思い、新たな発生源を探した。すると、調味料が置いてある吊り棚の片隅に、なにかの粉がこぼれていて、そこに白い小さな芋虫が多数いるではないか。はい、駆除しました。
 あんなところに住み付くなんて、彼らも必死のようだ。かわいそうだが、私も必死である。彼らが飛んできて私の腕を歩いていたりするのを見ると、全身がかゆくなって止まらないのである。

父の夢
2008.06.25 Wed 12:07 | 夢日記 |
 父がボケてしまう夢をみた。
 父が雑誌やぬいぐるみなど色々なものをトイレに流して、トイレがゴミ箱のようになってつまってしまう夢だった。家族みんな、見て見ぬフリをしていた。気づいて気づかぬフリをしていた。現状を認めたくなかったのだろう。誰もお互いに思っている事を言わないので、夢の中では父が延々とトイレをつまらせていた。私は一人、ゴミを拾って捨てていた。

 とても長い夢だった。

クラゲ世界征服計画
 今日の「爆笑問題のニッポンの教養」は『クラゲ 世界征服計画』というタイトルで、広島大学の上真一教授(生物海洋学)を訪ねていた。

 上先生はクラゲ研究の第一人者である。クラゲといえば、ここ数年は毎年エチゼンクラゲの大発生がニュースになっているが、エチゼンクラゲはもともと、40年に一度程度の大発生だったらしい。
 上先生は、エチゼンクラゲは卵から孵化した後も分裂を繰り返すことを明らかにし、その分裂のきっかけとなるのが”海の汚れ”であることを実証した。そして、今エチゼンクラゲ達が狙っているの中国の沿岸。エチゼンクラゲは毎年、急速な経済発展で海の汚染がすすむ中国で生まれ、そこで分裂して増殖し、海流にのって日本へと押し寄せているのだ。当分、この大発生が止まるという事は考えられないと先生は言う。
 日本でもその昔、東京オリンピックの頃は海の汚染がひどく、東京湾にクラゲが大量発生していたという。そして今年は北京オリンピックの年。ここ数年の中国沿岸で同様の事が起こっているのが、不思議と言うか皮肉なものだ。海は人間社会の鏡なのかもしれない。

 上先生が目指す海は”キレイな海”ではなく、”豊かな海”だそうだ。魚がたくさん住める海だそうだ。ところが今はもう干潟や藻場がなくなってしまって、どんどん海が酷使されて魚が少なくなるような現状であることを、先生は憂う。

環境が悪くなって魚が増えない+人間がたくさん魚を獲る
→クラゲが残る
 →クラゲがプランクトンを食べつくす
  →魚のエサがなくなる
   →魚が減る
    →クラゲが増える
     →クラゲが魚の卵や稚魚も食べる
      →魚が減る
こういうのをクラゲスパイラルと言うんです。

まさに人間がきっかけを与えてしまった悪循環である。
 上先生は言う。

 クラゲは、我々に環境破壊の実態をおしえてくれる使者ですよね。
 人間は、漁船の馬力を上げ、網を改良して、漁法をどんどん開発していって、魚を根こそぎ獲ることができるような技術までも持ち始めているわけですよ。『そんなことしたらいけんよ』って、クラゲが出てきて魚を守っているかもしれない。

そんな考え方をするなんて、なんと心の優しい先生だろうと、少し微笑ましくなるぐらいだった。
 けれども、では自然が完全に太古の昔の状態に戻ればいいかというと、そうではない。

 やっぱり人間にとって有用な海と言うのを、常に考えていくべきではないかと思う。人間をはずして自然を考えようっていうのは、無理がある。

私は、海を愛する先生がそんなに自己中心的な考え方をしていいのかと意外だったのだが、これには太田さんも賛成していた。そうでないと、地球にとっては人間が死ぬのが一番でしょ?ってことになってしまうからだという。人間なんて滅びてしまえばいいのにと思う私は、やはり人間として不完全なのかもしれない。

 上先生は”里山”ならぬ、”里海”という考え方を提案しているそうだ。

 山の生産を上げたりいろんな生物が多様性をもって維持できる状態を、海でもできないかって思うんです。人間が手を加えることによって、クラゲだらけにならない、魚だらけになる、人間にとってもっともっと有用な海に変えていけるのではないか。そこを目指さなければならないはずです。


 『人類』にとっては大迷惑なものでも、『人類』への”警告”として真摯に受け取る。それをやみくもに排除しようとするのではなく、何故そうなってしまったのかを深く考える。『人類』の過ちは素直に認めるが、『人類』を抹殺するようなことはしない。むしろ今の『人類』ができる、最善の方法を考える。けれども、やはり判断の中心は『人類』。『人類』にとって結果的になにが有益なのかを考える。

 この考え方は、『人類』を『自分』に置き換えて、他者との関係を考える上でも通用する考え方だなあと思った。私たちは、他者も自分もそのどちらをも排除してしまっては生きられない。他者と共存しつつ自分の幸福を考えなければいけないのだ。
 私はテレビを見ながら、そんな、番組テーマとは関係ないことをつくづく思い知らされてしまった。

ヒトの宿命
2008.06.24 Tue 09:21 | | 心と身体
 ひきこもっている私は、ブログを書いたりネットでゲームをしたりしているうちに、最近パソコンの前に座っている時間がますます増えた。一昨日前などは朝まで眠れなくて、十数時間ぶっ通しで椅子に座ってネットサーフィンをしていた。

 すると・・・・・。
 どうもお尻の様子がおかしい。シモの話で本当に恐縮なのだが、お尻が痛い。初めは違和感程度だったものが、だんだんズキズキしてきた。どうしたものか。
 ネト友に言うと「痔だ~!」と大笑いされた。こ、これが痔なのか。

 実はうちの家系は痔体質らしく、親や祖父母が手術経験者。いよいよ私も気をつけなければいけなくなったかという感じである。余談だが、この病気にさほど年齢は関係ないと思う。親のお見舞いに行ったときに、若い女性も多数入院していたのを目撃した。

 wikipediaに面白いことが書いてあった。

 直立二足歩行するヒトの場合、直腸や肛門付近の血管は、頭の方向に血液を送っているため、普段から非常に大きい圧力がかかっている。そこに、長時間の立仕事や座り仕事などによる肛門付近での体液の鬱滞、便秘または下痢を繰り返すことなどで肛門部に強い力が幾度もかかる事、などの要因が加わって痔を発症する。したがって痔は、椎間板ヘルニアやO脚などと並んで直立二足歩行であるヒトの宿命であるといえる。ヒト以外の動物は基本的に痔を患う事が無い。
「wikipedia-痔」より)

なるほど。これも進化の結果でうまれた病気なわけだ。

 ちなみにうちのフェレット君も、たまに排便後に肛門がふくらんでいることがある。「フェレットだって痔になるじゃない!」などと思ったのだが、さらに調べたところこれは”痔”ではなく、肛門から腸が裏返って出てしまう”脱肛”という症状らしい。

 フェレットは、生後間もない頃に肛門の横から肛門線という物を取り除く手術を受けています。この手術跡が、成長するつれて「あるべき物がない分の緩み」となり、腸の先端を押し出しやすくしてフェレットの脱肛常習者を増やしているようです。
(「フェレットTV-脱肛」より)

なるほど、こちらは人間の勝手で生んでしまった疾患なわけだ。

 とにかく意味があって進化してきた生物である。それを不自然な状態でいつづける事は、体には具合がよろしくないらしい。おそらく外面だけでなく内面もそうなのだろう。知らない間に身も心もストレスがたまっているわけだ。
 今回の結論としては、長時間椅子に座り続けるのはよくないということだ。以前、自律神経が狂っていた私は、一定時間ごとに強制的にでもトイレに行くように”トイレタイマー”を机の上においていたが、こんどは”痔予防タイマー”をつけなければいけないかもしれない。

 汚い話で申し訳なかった。

精神科で確認
 今日は精神科の通院日だった。先日テレビで見て疑問に思ったことを、先生に尋ねてみた。

「多くのうつ病患者さんが半年ぐらいで治っているというのは、本当ですか?」

すると先生は、「えー?」という顔をして言った。

「半年で治られる方は優良というか、すごくいいケースですよ。確かに半年で社会復帰される方もいらっしゃいます。でもそうですねぇ、うちに通っておられる方は、数年とかいう方がやっぱり多いです。それと、半年ぐらいで治られても、2~3年たつとまた戻って来てしまう場合もあります。」

だから焦るなといわれた。そうだろうそうだろう。そう言ってもらったほうがホッとする。
 質問ついでに、私はもう1つ聞いてみた。

「じゃあ、一生治らないというわけではないんですよね?」

今度は先生はちょっと困った顔をした。

「それも今は何とも言えないとしか申し上げようがないですね。いつ治るとは言えませんから。実際、十何年も治療をされている方もいらっしゃいますし・・・」

正直なうちの先生からは、「絶対に治りますよ!」という適当な勇気づけの言葉はもらえなかった。ただとにかく、症状が長引いているからといって『別の病気じゃないか?』とか『性格の問題なんじゃないか?』とか、そんな事は考えなくていいということだった。

 結局私は、「わかりました。先の事を心配するより、とにかく今日1日を健康に過ごすことが大事なんですね。」と、会話を自分でまとめて帰ってきた。帰り道によくよく考えてみたら、先生に質問して答えを聞いたというよりは、自分で想定した答えを先生から無理やり引き出して、その確認をして帰ってきただけのようだなと思った。

無理の限度
 夕食の支度をしなければいけなかった。食欲はない。胸がムカムカする。けれども、私にはやらなければならない事がいっぱいあった。手順を考えるのが精一杯で、頭が混乱し、手が動かない。
 彼が言った。

「無理しないでね。」

私は自分の体が思うように動かないイライラで、半べそをかきながらつい言い返してしまった。

「無理しないと動けないんだってば!」

 彼は、それは病気だからだと言う。健常者は、無理をしなくても、食事を作ったり外出したり、普通に日常生活が送れるのだと言う。

 本当にそうなのだろうか?人間誰しも、多少無理をしながら生きているのではないのか?みんな本当は嫌なのに、仕方がないから食事をつくったり、片づけをしたり、買い物をしたり、運動をしたりしているのではないのか?
 私にはその”程度”がわからない。どれぐらいまでが”我慢しなければいけないこと”で、どれぐらいまでが”無理”なのか。誰も私に教えてくれない。