フェレットのトイレ掃除とエサやり、布団上げ、新聞の片付け、食器の片付け・・・そんな毎日決まった作業をこなすのでさえ私にとっては重労働なのだが、突発的にいつもと違う作業が入ると本当に身も心も混乱する。
いつのまにか「疲れたぁ・・・本当に疲れたぁ」と声に出している自分に気がつき、「がんばれ・・・あとちょっとだぁ」と言い直してみる。呼吸すら忘れている自分に気がつき、「ふぅ・・・」と深呼吸をしてみる。
こんなときは、フェレちゃんも何かを察するのか、あまり私に擦り寄ってこない。
やっと一通りの作業が終わって、自分の朝食(といってもパンとコーヒーだが)を出してくる。ふと窓の方を見ると、外は今日もいい天気らしい。青空を見て思うこと・・・それは洗濯をしない自分。布団を干さない自分。なに偉そうにご飯とか食べてるの?とにかく今は、自分を責めることしか思いつかない。
そういえば昨年末に、「サイエンスZERO」という番組でも同じ事をやっていたなと思いホームページを見てみたら、この時のゲストも篠田先生であった。『日本人の大半は16のグループに入るということから、日本人は16人の母を持つともいえる。』という内容に、私は驚いたものだった。こちらのホームページにわかりやすい説明があるので、内容に興味のある方は、是非見ていただきたい。細胞の中にあるミトコンドリアにあるDNA。その遺伝情報は母から子へとそのまま受け継がれていく。したがって母方の祖先を太古の昔にまで遡っていくことによって、人類は今までにない基準でヒトをグループ分けすることができるようになった。
(番組ナレーションより)
そういう訳で先生の研究内容については割愛させていただくが、後半の雑談部分で篠田先生がおっしゃった言葉に、思わず私は大きくうなずいてしまった。
いい事を言うと思った。女性のジェンダー問題にピリピリしている私だからなのかもしれないが、家系図やら戸籍やら、そんなたかが数百年程度の歴史を必死に守ろうとするのはナンセンスだと、改めて思った。遺伝子で描くと、世界の人が全部つながっちゃうのが系図になるわけですよ。家系図って絶対どっかで切ってますよね。例えば”女は結婚したらもう入れない”とかってことで、無理やりまっすぐ作ったのが家系図で、実は本当の姿っていうのは、世界はもともと1つにまとまったものなんです。
それを裏付けるように、篠田先生は面白いことを教えてくださった。人類の歴史600万年を1年に例えてカレンダーを作ってみると・・・・
つまり歴史学と言うのは、人類の長い歴史の中の、日めくりの最後のページだけを言っているにすぎないのだそうだ。ましてや近代史など、除夜の鐘の”ゴーーーン”という音の間だけのことだ。
8月 : 人類の祖先が初めてアフリカを出る 12月 25日 : 現代人の祖先がアフリカを出る 12月 31日 午後11時 : 西洋文明が出来上がる
国とか民族とか歴史とか、みんなが争ったり血を流したり命を落としたりして必死に守っているものは、一体何なんだろうと思った。
見ているときは特になんとも思わなかったのだが、見終わってしばらくしてから、私はなぜか情緒不安定になった。映画とは無関係な件なのだが、突然、来るべき夏休みの長距離移動や、彼の親戚周りや、それらをよく思わないであろう母親の激怒が想像されて、何もかもが憂鬱になった。嫌だと言うこともできず、逃げ出すこともできず、誰も解決してくれないなら、もう私が消えるしか方法がないと思った。気がついたら「死にたい・・・死にたい・・・」と連呼していた。
涙が止まらなくなって、もはや感情のコントロールができないことが自分でもおぼろげながらわかったので、とんぷく薬の精神安定剤を飲んで、ようやく状態を少しおさめることができた。
数日前の記事にまとめた『睡眠の科学』に、そういえばこんな報告があった。
さらに、『これと同じ状態は精神障害を抱えた人にも見られる』という報告である。と、いうことは、だ。私の”扁桃体”は、『バイオハザードIIIMRIの検査台の上で神経を逆なでするような映像を見せる実験をした。
『睡眠不足のグループ』の場合は、感情をつかさどる”扁桃体”が異常に活発な反応を示していた。さらに『睡眠不足のグループ』の脳内では、感情をつかさどる”扁桃体”と、論理的思考および決断をつかさどる”前頭葉”との連絡が遮断された状態になっていることがわかった。
それを知った彼は、ホラー映画を見せたことを『本当にごめんね。』と言い、それ以降何の家事もできない私を叱ることなく、夜ご飯を買ってきてくれた。
その優しさに私はさらに自分を責めつつも、でもやはり”誰も私の気持ちはわかってくれないのだろうな”と思って絶望していた。健康な人は、うつ病患者を”させたいようにさせておく”ことで精一杯だろう。もうそれだけで、十分すぎるほど贅沢なのだ。それはわかっている。けれども、やはり根本的な部分で、うつ病患者が普通の人と同じ社会的生活を送るという事がどれだけ辛くどれだけ大変なことなのか、なかなか理解してもらえないのだろうと思うと、言いようのない絶望感が私を襲うのだ。
健康な人は健康な人同士で、楽しく明るくコミュニケーションをし、生きがいを見つけ、目標に向かってたくましく生きていって欲しいなぁと痛切に思った。私は病気。私は障害者。障害者は障害者同士、隔離された何もない場所で、腫れ物にさわるように傷をなめあってひっそり生きていく。もうそれでいいじゃないか。
あぁ、でもお金がかかってしかたがないか。それは本当に、申し訳ない。
<追記>
ちなみに私のネットの友人は、うつ病のくせに、ホラー映画が大好きだという。そういう人もいるので、一概に『精神障害を抱えた人にホラー映画は良くない』とは言えないのかもしれない。逆に、”好き”と”異常に反応する”とはまた違うことなので、やはりホラー映画は注意すべきかもしれない。
いつものとおり、久しぶりに出勤する夢。今回は、あたらしい産業医の先生が親切で、精神科の先生を紹介してくれて、カウンセリングを受けることになった。精神科の先生に、『今までの記録を調べさせてもらいましたが、あなたはいつも成績がいい。相当がんばってこられたようですね。』と言われて、泣いてしまった。『昔はなんでもできたのに、今は何もできないんです。』と号泣してしまった。
昼休みのあと、本格的に描画療法をすることになった。
ところが、昼ごはんを食べようと、病院のパジャマにスリッパといういでたちで外に出た私は、いつものとおり道にまよってしまう。いつものとおり高速道路を(なぜか歩いて)逆走してしまい、クラクションに追い立てられ、ウロウロしているうちに迷子になってしまい、目的地にたどり着けない夢だった。
ドロドロした”はちみつの中にいるような状態”のまま目が覚めた。全身がとても疲れていた。頭がひどく重かった。
私は、夢の中でしきりに訴えていた言葉を思い出した。『できれば、死にたいんですが。』
こんな主張すら、控えめにしか言えない自分に笑ってしまった。
テーマにとても興味があったのだが、悩んでいたのは高校生だった。思春期の”孤独感”は、大人になってからのそれとはまたちょっと違うような気がするなぁと思いつつも、番組を見た。だが意外にも、と言っては失礼だが、奥の深い内容であった。
富山県の高校2年生牧田恵実さんは、美術部に所属し、『人間の悩みや苦しみは他人にはわからない』という世界観を、グロテスクな絵柄や黒い色使いで表現していた。小学生の頃は明るかった恵実さんだったが、中学ごろから人の顔色ばかり気にするようになり、自分の殻に閉じこもるようになったという。
そう悟ったように言う恵実さんだったが、時々自信がなくなるときもあり、他の人の話も聞いてみたいと番組に応募したそうだ。人生って言うのは、1人で生まれてきて1人で死ぬんで、そこから言っても孤独だし、やっぱりその孤独と向き合って生きていかなきゃいけないこともある。
これに対して『人は決して孤独じゃない』と、人の笑顔をテーマに写真を撮り続けているのは、大阪の定時制高校に通う北浦加奈さん。いつも笑顔のチャーミングな女性だった。実は北浦さんは中国人。祖母が中国残留孤児ということで10年前に家族とともに日本にやってきたが、その4年後、祖母と血のつながりがないことから家族は帰国を余儀なくされ、中学生だった北浦さんと妹のみが日本の滞在を許されたのだそうだ。
家族バラバラに暮らすという辛い経験をもちながら、『人は孤独じゃない』と言い切る理由はなにか?それは一番辛かったときに支えてくれた友達や仲間がいたから、”自分は人に助けられて、支えられている”と思えたからだと、北浦さんは笑顔で話す。他人が自分の事を思ってくれているから、自分も他人を信じようと思えるのだという。
ここまでは、まぁよくある対談だなぁと思って番組を見ていた私であったが、北浦さんが親友である北本さんという同級生をつれてきたとき、私はその会話に頭を殴られたような気がした。
これに対して、『絶対私言えない・・・』と驚く牧田さん。「ケンカって悪くないよなぁ。」
「ぜんぜん悪くないと思う。するたびに新たな一面も見えるしなあ。」
「仲直りするときに、『あんたのここが嫌やねん!』って言い合うよなあ。」
「お互い嫌なことをダーッと言って、お互いすっきりして。」
私もまったく牧田さんと同じだ。よくよく考えてみたら、私は”親友”と呼べる友とケンカしたことなど、生まれてこのかた一度もないということに気づき、愕然としたのだ。私はたとえ”親友”だとしても、相手の機嫌を損ねないように、顔色を伺いながらいつも空気を作っているような気がする。気まずくなったら話題を変えたりして核心に触れないようにしながら、こっそり裏で問題点を修正することが多い。これは本当の友情ではなかったのだろうか。私なんか、ケンカしたら絶対悪い関係になるとしか考えてなくて、つい考えてしまう。
親友の北本さんは言った。
牧田さんも感想をもらしていたが、『心の底から羨ましい』関係である。羨ましいが、やはり自分ではそんな風に心を開くことは、誰に対してもできないのではないかと思う。本音で言える人に出会えるって言うのは、すごいいい事っていうか、いい人に出会えたなって感じ。近くにおるかもしれへんよ、そういう人が。うちらもこんなに仲良くなるとは思わんかったなぁ。
牧田さんは、中学時代の事を振り返って、気になる発言をしている。
私は牧田さんの気持ちが痛いほどわかる。いったい何が、こういう言いようのない”孤独感”を育ててしまうのだろう?親との関係なのか。小さい頃の友人や教師なのか。「1人で授業中に泣いてても、誰も助けてくれなかった。居場所がなかった。」
「親に学校に行きたくないと訴えたけれど反対された。」
「悩みや辛い気持ちを人に打ち明けるのではなく、部屋で1人絵を描くようになった。」
「結局は自分で解決しなきゃいけないって思うんだよね。」
おそらく牧田さんは(そして私も)、頭では北浦さんの言う『人は決して孤独じゃない』という事は理解できても、『とは言え人間は所詮1人』という考え方を抜け出す事は至難の業だろうなと思った。むしろ、逆にその思考を『いけないことじゃないか?』と思わないようにする方がいいのではないかと思った。それも”個性”なのだから。
だが一方で、こんな小難しいブログを書いたり、テレビのドキュメンタリーをまとめたりできているではないか。パズルゲームなんて、逆に制御がきかずに4~5時間ぶっ通しでやってしまうこともある。集中力がないなんて嘘じゃないの?と自分で思ったりすることもある。うつ病とかもう治ってるんじゃないの?と、相変わらずその疑いが頭をよぎる。そして私が、『うつ病だと本が読めないから』という大義名分に甘えて、治療することや学習することを怠っているように思えて情けなくなるのだ。
先日、『社会福祉士になるにはどうしたらいいのかな。』などと思いたち、ある通信制の養成コースの資料請求をしてみた。そのパンフレットが届いたのだが、学習スケジュールを見て不安になった。
科目は16科目。それぞれにテキストが送られてきて、1年9ヶ月の間にレポートを全部で26回提出しなければならない。1ヶ月半にわたって毎週日曜日にはスクーリング(通学)があり、実習施設での現場実習も12日間連続で行わなければならないそうだ。この私にそんな事ができるのだろうか。
そもそも、そのパンフレットに長々と書いてある、各担当教師からの言葉が読めない。読もうという気すら起こらない。無理に読もうと思っても、難しい言葉が頭で消化できない。
私は”教科書を読む”という事がどんなことだったのかを思い出そうと、久しぶりに『認知療法』の本を取り出して読んでみた。今回は以前より少し先まで斜め読みできた。けれども、『~ですよね』といった語り口に共感できないところがあったりして、結局何が言いたいのかわからないままに本を閉じてしまった。
なぜ”読むこと”だけできないのだろう。そういえばこのブログも、書きなぐってはいるが、あまり自分で読み返したりすることはない。本当に無責任で申し訳ないのだが、読み返そうと思っても『長いなぁ~』と思うと気分が萎えてしまって読めないのだ。
そんなことをしていたら、昨日すごいことに気がついた。オンラインゲームは(あまり長時間だと疲れるが)、わりと集中してやってしまう事の1つであり、昨日もネットの友人とオンラインゲームをして遊んでいた。ところがそのゲームの攻略サイトが読めないという事実に、愕然とした。
『効率よくゲームをするために』のような感じで、クエストをたくさん受けてまとめてやってしまう方法が書いてあるサイトを読もうとしたら、あまりの文字の多さに目がかすんでしまった。何度読んでも、内容が頭にはいってこない。困った困った。結局は、『1つ1つゆっくりやっていこう。』という事になって落ち着いた。
ほんとうに、なぜ”読むこと”だけができないのだろう。