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芸術家として生きる
 「爆笑問題のニッポンの教養」は、2週間にわたり東京藝術大学の学長である宮田亮平先生を訪ねての『アートのハート』という対談であった。今週はその前編で、今を芸術家として生きるとは・・・などという話になっていた。

 宮田先生は、自転車でフラフラ表れるようなフランクな方で、初対面の太田さんに『本当のことを言っていない』といきなり言うなど、ざっくばらんにお話をされる学長さんであった。

 気になった部分だけメモしておく。作品を作るということについて。

 めちゃくちゃ下段階があるわけさ。おれは何作ったらいいんだろうって。で、その後何ヶ月もかけるわけでしょ。その前段階で、ものっすごい死ぬほどスケッチするわけだ。学生たち同士もデッサンし、ディスカッションし、教員ともディスカッションし、これに決めたときに、決めてもまた迷うんだよね。迷っても迷ってもそれに負けずに、最初のものに対してきちっと最後までやっていく。で、フィニッシュはないわけ。でもね、いつか切ろうよって言うような勇気があるんだよね。教員も勇気が必要なのね。それ作ってる学生はもっと勇気が必要。
 その辺のところの葛藤が、現場の面白さだね。

そういう葛藤を面白いと言えるかどうかが、表現者として向いているか否かの部分なのかなと思った。芸術にあまり明るくない私などは、芸術家はいつも悩みと葛藤の中にいて、相当孤独なのではないかと思っていたのだが、どうやら少し違うようだ。今の”東京藝大”という環境についての意外なお話も聞けた。

 一人では人間ってなかなかできないじゃん。一個のもの作り上げるのもさ。そのとき周りにそういう似たようなものがあることによって、周りのものと比べることによって、『あ、これもうちょっとこうしていこう』って新しく自分にピュアなものを作るっていうふうな、環境だな。土俵だな。
 その土俵を維持するために、教員もそれを作ってる。お互いの関係がきちっとそういう空気がある。
 ただ野原にボンと一人でアトリエがあっても、なかなかできないと思う。

一人の世界にこもり過ぎていては、逆に独創性が生まれにくいとでも言うのだろうか。芸術の世界にも、ある種のコミュニケーションというか社会性のようなものが必要だというところに、なにか少し不思議な感じがした。”他者との差別化”という、現代ならではの表現性なのかなとも思った。
 と同時に、私は『野原にボンと一人で』のところで、唐突にキャンバスを置いた麦畑で猟銃自殺をしたゴッホを思い出した。ゴッホは人間としても芸術家としても、いろいろな意味で本当に孤独だったのだろうかと、改めて悲しくなった。

 また、私は宮田先生の何気ない言葉に驚いた。

 どれだけ自分に忠実になれるか、自分に楽しくなれるかみたいな部分を作ることも、僕ら(教員)の仕事なんだよね。

自分に忠実になれると楽しいのか・・・今の私だったら、自分に忠実になるのはとても苦しい事だと思う。一般常識とか、他人の目とか、社会のモラルとか、そんなものに縛られて、いろいろ難しい問題が多すぎるからだ。そこから解き放たれたとき、さぞ自由なのだろうと頭ではわかっていても、そこまで”ピュア”に自分を表現するのは本当に敵が多いと、考えただけで疲れてしまうからだ。
 それができる環境があるなんて、楽園のようだ。一度、浸かってみたいものだと思った。

 そして、太田さんが”芸術”について『業界自体が陽の当たんないところに来てますよ!』と、困難な世界である事を改めて指摘した時に、宮田先生が言われた言葉。

 いやいや、それは昔からそうだよ。変わらん。
 将来なんかのために今するんじゃなくて、もっと大事なのは、今をきっちり生きるためにどうしたらいいかって事を一生懸命考えてる連中がいっぱいいるんだよ、うちは。

ピュアである。ピュアすぎる。それで大丈夫なのか!羨ましくもあり、妬ましくもあり、反論したくもあり。
 つづきは来週に期待。

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