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録画していた番組を整理していたら、NHKの歴史番組「その時歴史が動いた」の、松尾芭蕉の回があった。芭蕉のあの代表作が生まれるに至った過程を見ていく、『古池や蛙(かわず)飛(とび)こむ水のおと~松尾芭蕉 人生を映した17文字~』の回であった。
よく考えたら俳句はすごい。たったの17文字で景色や、音や、世界や、人生までをも表現する。私など、どんなに言葉を重ねて語りつくしても伝わらない事だってあるのに、たったの17文字でこんなにも人の心に響く言葉ができるとは。逆に、研ぎ澄まされた言葉だからこそ、選びに選び抜かれた言葉だからこそ、無駄なくダイレクトに読み手に伝わるのだろうか。
ともかく私は、番組を見た。
今私たちがよく知っている”俳句”というジャンルは、明治時代に生まれた文芸だそうだ。その源流を作ったのが芭蕉なわけだが、芭蕉の生きた江戸時代のそれは、笑いと機知に富んだ句を仲間内でつなげていく”俳諧”という言葉遊びにすぎなかったそうだ。伊賀上野で生まれ貧しかった芭蕉だが、日本橋に居を構えて”俳諧師”となってからは洒落たセンスを発揮し、弟子を数多く抱えるなど申し分のない成功をおさめていたそうだ。
やがて芭蕉は、突然すべてを捨てて旅に出るのだった。それは、自分の生き方を根本から見つめなおす旅だった。今で言えば、流行りの”自分探しの旅”なのだろうか?だが、芭蕉の旅は、途中で行き倒れようともかまわないとの覚悟を決めた旅だった。
その旅で、芭蕉は見たまま感じたままを表現する句を詠むようになる。目の前の情景を、飾ることなくありのまま描く。そうしたときに、初めて表現できるものがあることに気づいたのだそうだ。私がお気に入りの一句はこれだ。山越えの道で一息ついた時の一句。
そして旅から1年たった1686年の春。芭蕉は門弟たちを集めて、まず下の12文字から詠んだ。
続く上の5文字に、門弟の1人は『山吹』を進言したそうだ。”蛙に山吹”・・・これも古典の常套句なのだそうだ。けれども芭蕉は、それには返事をせずこう詠んだ。
飾らない平明な言葉で無限の解釈を可能にした17文字は、芭蕉の独自の俳諧の境地”蕉風”の誕生を意味していた。芭蕉が見出したのは、永遠に変わらないもの、そして時とともに移ろうもの、『不易流行』というこの世の真理だった。それを芭蕉はわずか17文字の中に描ききったのだ。
欲や名声を捨てて、体ひとつで旅を続けた芭蕉は、旅先の大阪で病に倒れる。死の床にあっても、理想の俳諧をなお追い続けた芭蕉は、最後の句をこう詠んだそうだ。
私もこんなに文章をダラダラと書きなぐってばかりいないで、できるだけ短い言葉で、かつ自分がのびのびと動ける自由な世界を作り出すような文字が書ければいいなあと、漠然と、しかし確実に思った。
よく考えたら俳句はすごい。たったの17文字で景色や、音や、世界や、人生までをも表現する。私など、どんなに言葉を重ねて語りつくしても伝わらない事だってあるのに、たったの17文字でこんなにも人の心に響く言葉ができるとは。逆に、研ぎ澄まされた言葉だからこそ、選びに選び抜かれた言葉だからこそ、無駄なくダイレクトに読み手に伝わるのだろうか。
ともかく私は、番組を見た。
今私たちがよく知っている”俳句”というジャンルは、明治時代に生まれた文芸だそうだ。その源流を作ったのが芭蕉なわけだが、芭蕉の生きた江戸時代のそれは、笑いと機知に富んだ句を仲間内でつなげていく”俳諧”という言葉遊びにすぎなかったそうだ。伊賀上野で生まれ貧しかった芭蕉だが、日本橋に居を構えて”俳諧師”となってからは洒落たセンスを発揮し、弟子を数多く抱えるなど申し分のない成功をおさめていたそうだ。
芭蕉は言葉遊びだけの俳諧と自分の姿に、次第に疑問をもちはじめるようになってきた。けれども彼には、これしか生きていく術がなかった。芭蕉は苦悩の日々を送る。『17文字を通して本当に表現すべきことがあるのではないだろうか・・・』人気俳諧師となった芭蕉のもとには、点者(句会の採点者)としての仕事の依頼が増えていく。しかし、そこで流行していたのは、点者がつけた点数で金品を争う賭け事だった。
(番組ホームページより)
やがて芭蕉は、突然すべてを捨てて旅に出るのだった。それは、自分の生き方を根本から見つめなおす旅だった。今で言えば、流行りの”自分探しの旅”なのだろうか?だが、芭蕉の旅は、途中で行き倒れようともかまわないとの覚悟を決めた旅だった。
その旅で、芭蕉は見たまま感じたままを表現する句を詠むようになる。目の前の情景を、飾ることなくありのまま描く。そうしたときに、初めて表現できるものがあることに気づいたのだそうだ。私がお気に入りの一句はこれだ。山越えの道で一息ついた時の一句。
疲れて足を休めたときだけ見える優しさがある。美しさがある。そんな共感を呼ぶ句である。山路来て 何やらゆかし すみれ草
そして旅から1年たった1686年の春。芭蕉は門弟たちを集めて、まず下の12文字から詠んだ。
門弟たちは驚いたそうだ。古典の歌の世界では蛙は”鳴くもの”と決まっていたからだと言う。けれども門弟たちは、飛び上がる蛙のこっけいな姿に、小さな生き物が繰り出す一瞬の躍動感を覚えたと、門弟の1人が詳しく書き残している。蛙(かわず)飛(とび)こむ水のおと
続く上の5文字に、門弟の1人は『山吹』を進言したそうだ。”蛙に山吹”・・・これも古典の常套句なのだそうだ。けれども芭蕉は、それには返事をせずこう詠んだ。
蛙の躍動感を古池の静けさの余韻・・・。蛙の動きのこっけいさに対して古池という枯淡な響き・・・。悠久の時の流れの中に一瞬のきらめきをみせた命の儚さ・・・。古池や 蛙(かわず)飛(とび)こむ水のおと
飾らない平明な言葉で無限の解釈を可能にした17文字は、芭蕉の独自の俳諧の境地”蕉風”の誕生を意味していた。芭蕉が見出したのは、永遠に変わらないもの、そして時とともに移ろうもの、『不易流行』というこの世の真理だった。それを芭蕉はわずか17文字の中に描ききったのだ。
欲や名声を捨てて、体ひとつで旅を続けた芭蕉は、旅先の大阪で病に倒れる。死の床にあっても、理想の俳諧をなお追い続けた芭蕉は、最後の句をこう詠んだそうだ。
芭蕉の思いは時も空間も越えて、今でも日本中を旅しているのだろうか。そんな余韻の残る渾身の一句である。旅に病(やん)で 夢は枯野をかけ廻る
私もこんなに文章をダラダラと書きなぐってばかりいないで、できるだけ短い言葉で、かつ自分がのびのびと動ける自由な世界を作り出すような文字が書ければいいなあと、漠然と、しかし確実に思った。
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