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インスリノーマ
2009.06.27 Sat 14:18 | フェレット | ペット
NEC_0119_20090627141430.jpg とうとうこの宣告の日がきてしまった。インスリノーマ。フェレットの三大成人病の一つ。低血糖を症状とする病気だ。
 2日前の朝のことだった。寝ぼけまなこで起きてきた我が愛フェレットのどんぐりちゃん、後ろ足をふらつかせていたかと思うと、突然ドサッと横倒しに倒れたのだ。いやな予感がした。後ろ足のふらふき・・・インスリノーマの症状の一つだ。
 今日、毎月の注射「リュープリン」を打ってもらいに動物病院に行き、ついでに血液検査をうけた。通常100~120ある血糖値が、80↓しかなかった。「これはインスリノーマと言っていいと思います。」と先生は言った。副腎腫瘍にくわえて、インスリノーマまで併発してしまったのだ。
 早期発見なので、”攻めの防御”を指示された。寝起き、遊ぶ前、遊んだ後、血糖値が下がると予想される前に、バイトをこまめになめさせるのだ。それでも万が一発作が起きてベッタリ倒れてしまったら、ガムシロップをなめさせなさいと、スポイトを2本もらった。
 どうか発作がおきませんようにと思いながらも、もしそれがどんぐりちゃんの天命なのだったら、楽に逝けていいのではないか・・・と言っていたら、夫に怒られた。

 私が泣いていると、涙をなめてくれて、しょっぱそうな顔をするどんぐりちゃん。こんなに早く私をひとりにしないで。もう少しだけ一緒にいてください。

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何もしない日々
 時計とにらめっこしていたら、一分一秒が無駄に長かった。そんな、何もしない一日がやっと終わりそうだ。これから薬を飲んで、寝る。起きると、また何もしない一日が始まる。延々とその繰り返し。私の人生これでいいのか。こんなはずじゃなかったと思うと、情けない。情けないが、どうしようもない。

味覚異常
 最近、どうも食べ物の味がしない。全体的に塩気が足りないのだ。そういえば私はしょっちゅう「しょっぱいものか、酸っぱいものが食べたい!」と言っているような気がする。酸味も足りないのかもしれない。
 ただでさえ食欲がないのに、食べ物を噛んでも噛んでも砂を噛むようで、あまり食がすすまない。もしやと思って、今飲んでいる抗うつ薬”アナフラニール”の副作用を調べてみた。すると、あった。『味覚異常』が5%以上の頻度で起こるそうだ。この他にも、『起立性低血圧』と、『口渇(喉の渇き)』が、私にはすでに副作用として出ている。
 抗うつ薬は、うつ症状をおさえる意味では良薬なのかもしれないが、同時に副作用との戦いでもあるのだ。いつかは、薬を全く飲まないでもすむような体に戻れるのだろうか。

逃げ回る
 このところ梅雨らしいどんよりとした天気となってきた。天気で気分が左右されやすい私にとって、あまり嬉しくない季節だ。
 昨日は、父の日だった。私と夫のそれぞれの父へちょっとした贈り物をし、これからも元気でいてくれるよう願った。私はどこかで、この行事はずっと変わらないと思っている。いつまでも父の日には父へ贈り物をするのだと思っている。何年か何十年か後には、確実になくなるこの行事が、永遠に続くと思っている。
 今は、そのことは深く考えない。今なにか考えると、負の自動思考が起こり、うつ気分がひどくなりそうなので、今は考えない。こうして私は、全ての嫌なことから逃げ回って日々を過ごしている。

私はここにいる
 ビデオを整理していたら、NHK「爆笑問題のニッポンの教養」のFILE074:「私は ここに いる」(6月9日放送)を見つけた。この回は、目が見えず耳が聞こえない東大教授・福島智先生(障害学)の回だった。

 私は今朝まで”宇宙にたった一人置き去りにされた”と思っていたが、福島先生の感じた孤独感はもっとすごかった。先生は「集団の中で自分だけが取り残されてる」という辛さを、こう表現した。

 自分がこの宇宙にはいない、この次元にはいない、別のところにいってしまったようなすごい孤独の絶望を感じた。

私はまだまだ甘えているんだろうなあと、思わざるを得なかった。

 その福島先生が、爆笑問題に難しい質問をした。

 社会が求めている仕事ができないすごく重いハンデをもった人達は、生きる意味はないのか?

これには思わず太田さんも「ピンと来ない。わからなくなっちゃう。」とうなっていた。私自身も今現在、うつのために社会が求めているような仕事が満足にできない状態で、自分には生きる意味はないと思ってしまう。その考えから逃げ出すのにとても苦労をする。これはどう考えればよいのか。
 福島先生の答えはこうだった。

 意味はないと言っちゃえば、おそらく地球上の人間全員意味はないんです。たかだか何億円か収入があったとしてもそれだけのこと。何十年か生きて宇宙の原子に帰っていくだけのこと。
 だけどそこにもし意味があるんだと考えれば、豊かな人も貧しい人も障害がある人もない人も、とりあえずみんな生きてる意味はあるよね、という話だけのこと。

わかったようなわからないような・・・。生きる意味を考える上では、貧富の差や障害の有無といった、社会が決めたようなルールは関係ないということなのだろう。

 続けて福島先生は、アウシュビッツの収容所に入れられた経験のあるヴィクトール・フランクルという人の本の話をしてくださった。

彼の本を読んでいて、すごい公式に出会ったんです。
  絶望=苦悩-意味
意味がない苦悩が絶望である。苦悩と絶望は違うんだ。
   (中略)
 苦悩があるから、しんどいから不幸だって簡単に考えるのではなくて、意味をそこに見出させれば、それは絶望ではない。新しい豊かな人生が見つかるかもわからないっていうふうに思っています。

これは、とても新鮮で興味深いお話だった。今までは”生きる意味ってなんだろう?”と、”意味”の内容ばかりグルグル考えていた私であった。けれども、この公式からは、”意味を考えること”、”意味付けをすること”そのものが大切なのではないかと気付くのだ。
 ヴィクトール・フランクルのように例えて言えば、
  生きる=命+意味
という公式はどうだろうか。生きること。命をもらったからただ生きるのではなく、その意味を考えてこそが生きること。意味を見出せれば、それはもはやただの命ではない。考えながら生きていく。そんな風に思えるようになってみたら、少し楽になってきた。

うつの波
 またうつの波がやってきた。
 どうやら私は、うつの時しか記事がかけないようだ。それはこのブログが「うつ」というカテゴリーに入っているからではなく、調子がいい時は書けない、書くことがないのだ。前回の記事の考え方を借りれば、調子よくクルクルと動けるときには、頭が”言葉”で考えない状態になっているように思える。

 とにかく、うつはやってきた。私は宇宙にたった一人置き去りにされたかと思うほどの孤独を感じながら、私のことなんてどうせ誰も気がつきゃしないと、せまいマンションの一室で小さく丸くなって、あふれる涙を垂れ流していた。私の生きている意味なんてどこにもない、存在する価値がないと思った。
 ふと、近くにフェレットのどんぐりちゃんが寄ってきた。じゃあ動物たちには、存在する価値があるのか。どんぐりちゃんを見ると、つぶらな瞳、邪気のない様子でのびのびと手足を伸ばしている。どんぐりちゃんはかわいい。みている人々を癒してくれる。かわいいから生きている意味はある。そう思った。
 年をとり、太った私は醜い。私はかわいくないから、生きている意味なんてないのだ。私はフェレット以下だ。とことん卑屈になった。