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<私>探し
 「爆笑問題のニッポンの教養」を見た。『<私>探し』というテーマだったので、自分の居場所や可能性を見つけるような話かと思って見たら、そうではなかった。<私>という存在を、哲学的にひたすら追い求める話であった。

 爆笑問題の2人が訪ねたのは、日本大学の永井均先生(哲学)。先生は、幼稚園の頃から「なんでコイツ(自分)が僕なんだろう。他のヤツは僕じゃない。」と悩んでいたというから筋金入りである。
 しかし、番組を見ていても結局のところ答えは出ない。すぐ答えが出るような問題ではない。というか、答えがない問題なのだ。

 例えば17世紀の哲学者デカルトの有名な言葉に

我思う、故に我あり。

というものがある。森羅万象、全部幻で、自分の記憶や自分の体がなくても、それでも自分<私>ということだけは疑えない・・・と、デカルトは考えたわけだが、これは永井先生の言う「なぜ<私>という特殊なものが存在するのか?」という問題の答えにはならないのだそうだ。

 死ぬということは<私>の問題のひとつにあると、永井先生は言う。

 他の人が死ぬことは見たり経験したりできるけれど、自分が死ぬというのは、ある意味全く特別なことですよね。他の人の死っていうのは、世界の中で起こる出来事ですよね。でも<私>の死はそうではなくて、いわば世界そのものが消えちゃうことですから。無になっちゃうことですからね。

自分をとりまく世界は全部自分。自分はすべて。<私>は世界そのものなのだ。
 またおもしろいことに、<私>の世界は夢に似ている。

 夢は、全部自作であるにも関わらず、いろんな人がいろんなことを言う。意外なことを言う。自分の心の中なのにも関わらず、二重三重に自分の心以外のものがあって、さらに奥に他者の心っていうものがある。そういう構造を自分で作っちゃうわけですね。
 そうだとすると現実もそうなってますよね。すると現実と夢とどう違うのか。

もしかしたら、現実は、みんなの夢の集まりでできているのかもしれない。

 いろいろと難しかったが、ともかく<私>の世界では自分が主役だということ、自分が脇役である<私>などないということに改めて気づかされた。たとえオリジナリティなどなくても、他人とは全く異なる特殊な存在<私>が、確かにここにいる。そのことに、もっと安心していいような気がした。

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