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2007.10.31 Wed 00:49 |
爆笑問題のニッポンの教養 |
テレビ・ラジオ
毎週楽しみにしている「爆笑問題のニッポンの教養」、今夜のテーマは、自称ひきこもりの私が、今までで一番楽しみにしていたとも言える「ひきこもりでセカイが開く時」であった。
今回の先生は、国内では推定100万人とも言われる「ひきこもり」の研究の第一人者、精神科医の斎藤環先生。斎藤先生はまた、文学や現代美術、映画から漫画やアニメなどのサブカルチャーの批評家でもある。
今、アニメやライトノベルの世界では「セカイ系」が主流だそうだ。セカイ系では、「きみとぼく」の外にいきなり宇宙や世界がつながって描かれており、社会が省かれているのが特徴だ。敵がわからない。そもそも敵かどうかもわからない。何を目的として戦っているのかもわからない。漂うのはただ万能感と無力感。
これらを見て育った今の日本の若者達は、例えば運動や集団行動などで盛り上げようとしても、敵がわからないから、まずまとまらないそうだ。日本の若者は全体的に総ひきこもりモードと言えるらしい。
ひきこもりとは、そもそも人と会わないという「状態」であって「病名」ではない。例えば青色発光ダイオードを発明した中村修二博士も、学生時代の半年間引きこもって本ばかり読んでいたそうだ。この時期がなかったら、世紀の大発明もなかったとご本人でも言われているそうだ。
爆笑問題の太田さんも、高校時代は自称・ひきこもりだったそうだ。友達がいなくて、ずっと話しかけられるのを待っているうちに、友達ができないかもと思い始め、そのうちに自分で友達がいないというキャラクターを作ってしまって、小説ばかり読みふける毎日だったという。だがそのおかげで内なる世界が広がったという。したがって太田さんは、ひきこもりを悪い事とは思わず、むしろそこから生まれるものはたくさんあるんじゃないかと主張する。
斉藤先生はいう。ひきこもりは内面を深める環境としては必要なものだとは思う。だが、現実にひきこもっている若者の8割は、実は何もしていないのだと。本も読まない。ネットもしない。1日中横になっている。ただ座ってボーっとしている。そしてそんな何もしていない自分に自己批判、自己否定を繰り返している。「俺が何かするなんてとんでもない。」 彼らはプライドが高いかわりに自信がないのが特徴だという。
私のようにネット中毒になって好き勝手に遊んでいる人は、まだマシな方なのかもしれない。ただ自己否定するだけの毎日・・・どんなに苦しいことだろうか。考えただけで涙が出そうになる。
先生がまずそのような若者に言うのは、「できるところからしてごらん。」例えば読書とか映画とか、自分の趣味からすすめているそうだ。そう言われても何もしたくないのに・・・と思う私はうつ病だからかもしれない。とは言え、私は最近とりあえず歌やパズルで時間をつぶしているが、それでも何かしているだけいいのかもしれない、と自分で納得してみる。
フロイトによる精神分析的には、自己愛の一番原始的で幼稚な形が「自分が好き」という状態である。それから母、家族、友達、そして他人と、だんだん多くの自己対象と出会い、それらを取り込んで相手の機能を自分のものにしていくことで、自分自身も鍛えられるらしい。
自己愛は一生をかけて発達していくものである。逆に言えば
これは意外だった。自己愛は大人になるまでに完成するものだと思っていた。一生をかけて発達するのだとすると、大人になってからのひきこもりも問題ではないか。確かに今の私は、他人との接触を避け自分の世界でしか生きていない。そのせいか自分の事しか考えていない。他人の目を異常に気にしているようだが、実はそれは自分を守りたいからに他ならない。自己愛の正しい成熟が止まってしまっているということなのだろうか。この先がとても恐くなってきた。(でもたぶん私の場合は、先に「うつ病」を治さないといけない。)
最後に、斎藤先生が思う「心の病が治る」という事について、メモしておく。
精神医学に対する誤解の1つに「カルト(宗教的崇拝)とどこがちがうんだ?」という誤解があるそうだ。「カルト」は人の心を型にはめて楽にする、いわばマインドコントロールであるのに対して、「精神医学」は型をもっていない。精神医学の目標は
そういえば私の中には、いつも答えは2つしかない事に気が付いた。0か1か。白か黒か。そうか、だから苦しいのか。心の多様性、心の自由度、なんだかとても不思議な言葉に聞こえる。自分で結論を出す?誰かに決めてもらったらダメなの?逃げたり消えたりするのは答えにならないの?なんと難しい事なのだろう。
今回の先生は、国内では推定100万人とも言われる「ひきこもり」の研究の第一人者、精神科医の斎藤環先生。斎藤先生はまた、文学や現代美術、映画から漫画やアニメなどのサブカルチャーの批評家でもある。
今、アニメやライトノベルの世界では「セカイ系」が主流だそうだ。セカイ系では、「きみとぼく」の外にいきなり宇宙や世界がつながって描かれており、社会が省かれているのが特徴だ。敵がわからない。そもそも敵かどうかもわからない。何を目的として戦っているのかもわからない。漂うのはただ万能感と無力感。
これらを見て育った今の日本の若者達は、例えば運動や集団行動などで盛り上げようとしても、敵がわからないから、まずまとまらないそうだ。日本の若者は全体的に総ひきこもりモードと言えるらしい。
ひきこもりとは、そもそも人と会わないという「状態」であって「病名」ではない。例えば青色発光ダイオードを発明した中村修二博士も、学生時代の半年間引きこもって本ばかり読んでいたそうだ。この時期がなかったら、世紀の大発明もなかったとご本人でも言われているそうだ。
爆笑問題の太田さんも、高校時代は自称・ひきこもりだったそうだ。友達がいなくて、ずっと話しかけられるのを待っているうちに、友達ができないかもと思い始め、そのうちに自分で友達がいないというキャラクターを作ってしまって、小説ばかり読みふける毎日だったという。だがそのおかげで内なる世界が広がったという。したがって太田さんは、ひきこもりを悪い事とは思わず、むしろそこから生まれるものはたくさんあるんじゃないかと主張する。
斉藤先生はいう。ひきこもりは内面を深める環境としては必要なものだとは思う。だが、現実にひきこもっている若者の8割は、実は何もしていないのだと。本も読まない。ネットもしない。1日中横になっている。ただ座ってボーっとしている。そしてそんな何もしていない自分に自己批判、自己否定を繰り返している。「俺が何かするなんてとんでもない。」 彼らはプライドが高いかわりに自信がないのが特徴だという。
私のようにネット中毒になって好き勝手に遊んでいる人は、まだマシな方なのかもしれない。ただ自己否定するだけの毎日・・・どんなに苦しいことだろうか。考えただけで涙が出そうになる。
先生がまずそのような若者に言うのは、「できるところからしてごらん。」例えば読書とか映画とか、自分の趣味からすすめているそうだ。そう言われても何もしたくないのに・・・と思う私はうつ病だからかもしれない。とは言え、私は最近とりあえず歌やパズルで時間をつぶしているが、それでも何かしているだけいいのかもしれない、と自分で納得してみる。
フロイトによる精神分析的には、自己愛の一番原始的で幼稚な形が「自分が好き」という状態である。それから母、家族、友達、そして他人と、だんだん多くの自己対象と出会い、それらを取り込んで相手の機能を自分のものにしていくことで、自分自身も鍛えられるらしい。
自己愛は一生をかけて発達していくものである。逆に言えば
ひきこもりによって他者との出会いが全くないということは、幼い自己愛から抜け出しきれず、自己愛も幼稚なまま止まってしまうことであり、そこが問題なのだそうだ。人生とは自己愛の成熟の過程である。
これは意外だった。自己愛は大人になるまでに完成するものだと思っていた。一生をかけて発達するのだとすると、大人になってからのひきこもりも問題ではないか。確かに今の私は、他人との接触を避け自分の世界でしか生きていない。そのせいか自分の事しか考えていない。他人の目を異常に気にしているようだが、実はそれは自分を守りたいからに他ならない。自己愛の正しい成熟が止まってしまっているということなのだろうか。この先がとても恐くなってきた。(でもたぶん私の場合は、先に「うつ病」を治さないといけない。)
最後に、斎藤先生が思う「心の病が治る」という事について、メモしておく。
精神医学に対する誤解の1つに「カルト(宗教的崇拝)とどこがちがうんだ?」という誤解があるそうだ。「カルト」は人の心を型にはめて楽にする、いわばマインドコントロールであるのに対して、「精神医学」は型をもっていない。精神医学の目標は
- 心を解放すること
- 心の多様性を回復すること
- 心の自由度を回復すること
そういえば私の中には、いつも答えは2つしかない事に気が付いた。0か1か。白か黒か。そうか、だから苦しいのか。心の多様性、心の自由度、なんだかとても不思議な言葉に聞こえる。自分で結論を出す?誰かに決めてもらったらダメなの?逃げたり消えたりするのは答えにならないの?なんと難しい事なのだろう。
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