それは、医師の鎌田實先生の著書であった。
鎌田先生といえば、やはり私は以前見た「課外授業~ようこそ先輩~」を思い出す。「最後の最後まで見捨てない医療」を掲げ、常に患者の声に耳を傾けてきた先生である。「病」だけでなく「心」も受け止める先生である。
この本は2005年に発売されたハードカバー本を文庫化したもので、書下ろしではないらしい。でも私にとっては初めて見る本だった。私はタイトルにひかれ、パラパラと中をめくってみた。
最初の数ページのお話を読んで、本屋さんでの立ち読みにも関わらず、私はポロポロと涙をこぼして泣いてしまった。それは、末期がんの善さんのお話。
こうして看護師さんとお花見に言った善さんは、帰ってきてから鎌田先生にこう言ったという。末期がんの善さんは病室で、桜が咲いたというニュースをテレビで見た。
「来年は、生きて、桜を見られないだろうな」
ひとり言のように言った。
彼は自分の病気のことを、すべて知っていた。
偶然、ほかの患者さんの看護のために、若い看護師が善さんの病室にいた。その言葉を聞いた看護師は、何か返事をしなければいけないと思った。
「どうしよう。どうしよう……」
困った。気休めのような嘘は言えなかった。ドキドキしてきた。
人生の瀬戸際に立たされた人に、かける言葉がないことがある。言葉なんか無力になることがあるんだ。返す言葉は見つけられなかった。
しかし、若い看護師は、善さんの言葉を自分のなかで握りつぶさなかった。静かに病室を出た。ナース・ステーションに戻って、スタッフに報告した。スタッフも悩んだ。いい言葉が見つからない。
善さんは主治医から、ていねいな告知を受けていた。進行した前立腺がんであること。骨に多発性の転移があって、歩けなくなったこと。すべてが、隠すことなく本人に伝えられていた。
「来年はよくなって、お花見ができますよ」
そんな、その場しのぎの嘘が、かえって彼を傷つけてしまうことになるのを、スタッフみんなが知っていた。
言葉を探した。看護のプロフェッショナルとして、元気や勇気の出る言葉をかけてあげたいと、看護師たちは考えた。
考えても、考えても、いい言葉は見つけられなかった。
一人のベテランの看護師が口ごもった。
「いい言葉は見つからないけど……。善さんの声は聞こえていますって、それだけは伝えてあげたいわよね」
スタッフの考えは同じ方向に向かいだした。病棟師長が言った。
「善さんをお花見に連れてってあげたいわね。午後の仕事は厳しいけど、みんなでカバーしあって、二人をフリーにしましょう。病院の運転手さんに車を出してもらうように頼んでみます」
(集英社書籍ポータルサイトより)
善さんの「来年は、生きて、桜を見られないだろうな」という言葉は、自分で自分に言い聞かせていた言葉だったのだ。だから無視してくれてもよかった。別にお花見に行きたかったわけではなかった。「先生は俺の心はわからないだろうな」
でも善さんは、「うれしかった」を繰り返した。それは桜を見たことではなく、赤の他人である看護師さんが、ひとり言とも言える自分の言葉を受け止めてくれたことがうれしかったのだと言う。言葉を受け止めて色々と努力してくれたことが、とにかくうれしかったのだと言う。
もう私は、涙で先が読めなくなって、本を閉じた。
希望を失っている人、気力を失っている人、かける言葉が見つからないとき。そんなときには、とにかくその人の話を聞いてあげる事が大事なのだなと、改めて思った。そして鎌田先生が「課外授業」でもおっしゃっていたが、聞くことの一番の目的は、『相手を理解すること』。理解できなくとも『理解しようとすること』なのだ。
病気よりも辛いこと、それは無関心。話を聞いてもらえないこと。誰からも必要とされないことほど、辛く悲しく生きる力を奪われることはない。
そして私も、言葉を受け止めてくれる人を心から求めているのだと、強く思った。
※本は、うつ症状が軽くなって、文章がきちんと集中して読めるようになったら購入させていただきます。