政治になどほとんど期待をしていない私は、”政治学”と聞いて興味を失いかけていたのだが、その対話内容は私が想像する”政治学”とは全く異なり、とても面白いものだった。
”政治学”といえば普通は、政治制度や理論の分析を行うものというイメージだが、姜先生の言う”政治学”はもっと人間を見つめようとするもの。”政治学”は人間そのものに寄り添った、身近で暖かなものでなければならないと、姜先生は言う。
話はなぜか今年の年6月8日に秋葉原でおきた、秋葉原無差別殺傷事件の25歳の犯人について及んだ。あの犯人については『世の中が悪い』という意見はあるけれど、政治の視点から事件を語ることがないと。
人から認められないと、結局おまえは路傍の石と同じで石ころだと、人のつまづきの原因にはなるけどお前は存在しないほうがいいというふうに彼は考えたとおもうのね。政治的疎外っていうのはそういう意味。
だからこの問題を、ただ貧困だとか雇用が安定しないだとか、それだけで考えていくと、どうもその政治の問題がみえてこない。
姜先生も高校時代、一人閉じこもって悩んでいた時期があったという。頭の中で異様に自分が肥大化して、コミュニケーションや他者は一切なく、ものすごくセンチメンタルで感傷的でもろくて、死にたいという気持ちがいくつかあったそうだ。なんとか先生が破滅しなかったのは、共同体的な関係の網の目の中(家族とか親とか)に救われていたからだろうという。
もし彼が『悩んでるのは自分だけではない』という”連帯”みたいなものを実感出来ていれば・・・彼はかなりそういう問題を抱え込んでいたとおもうけど、あれはボクは一種の自殺だったと思うのね。自分が死ぬために人を殺しているような。だから自殺と他殺が限りなく彼の頭の中ではもうイコールに等しい。だからアキバで愉快にしている人間がやっぱりうざったい。自分に近いから。
彼は「お前死ぬんだったら一人で死ね」と、「なんで他人を道連れにするんだ」と世の中から言われてるだろう。社会とつながりたいと、つながりを求めながら最後までつながれずに、暴発して自滅。結局「それは自己責任だろう」と、「おまえが悪い」と。
もちろんそうなんだけど、殺された人の事を思うとただごとではすまないんだけど、ただその現象に対して「一人で死ね」と言う風にしか言えないような政治がもしあるとすれば、これは政治じゃないと思うんだよね。
本来政治って言うのは、結局人間の本性に関わる事で、他者を受け入れましょうと。その代わり自分も受け入れてほしいと。そしてお互いが暴力で戦争をおこさずに相手を殺さずに、なんとか言葉の力で一応仲良くやりましょうというのが本来。
爆笑問題の太田さんは、今年の7月末にネットで”殺人予告”という脅迫を受けると言う事件にあった。その件に触れて太田さんは言った。
秋葉原の犯人の携帯サイトにも、ノーリアクションが一番つらい事を物語る文章が綴られていた。その文章をずっと何度もみて、そのあと彼はただ冗談だと言ってるんですけどね、ものすごく憎しみが伝わってくるんですよね。言葉をみると。
僕を『殺したい』ってネットにのるわけですよね。なるべく僕は刺激しないようにっていうのがありますよね。ノーリアクションでいろっていう空気があるわけですよね、そういうものに対して。
だけどそれで抑えているのが、今度逆に彼らの方は、これはリアクションが来ないから伝わっていないだろうと、別のアプローチをする。何をやっても自分の表現というのは世の中に伝わらないと思う。
だけどしっかり伝わっているの実は。そのことをね教えてあげたいと思うんですよ。
社会から、世界からの疎外感。それは現代のテロリスト達にも通じる気持ちかもと太田さんが言い姜先生もうなずいた。06/04 01:07
現実でも一人
ネットでも一人
06/04 15:54
いつまでたってもひとりぼっち
一番大切なのは、そういう孤独感を感じて絶望している人たちもみな、本当は社会とつながりたいのだと姜先生はおっしゃった。私もその一人なのかもしれない。そこに彼が気付いたら。自分がいかに重要かと。今の世界の問題の核心に近いところに自分もいて、共感できるっていう。(太田)
自分の陳腐な世界の出来事が、実は世界のある種の突先に通じているとそう分かった時に、彼はね、自分が世界に生きているんだって言う事を感じたと思うんだけど。(姜)
リアクションがないと無視されてる疎外感を感じてしまうが、実は届いているんだ、届きすぎて相手を壊している場合もあるんだと、想像力を働かせなければいけない。
姜先生は、政治学の先生でありながら、まるで哲学や心理学のようなお話をされる方であった。
(秋葉原の)彼は結局、最後まで受身で、誰も自分に声をかけてくれないっていうのがあったけど、自分をさらけ出さなければ相手からもアテンションは帰ってこない。悩みながらも、悩む力をてこにして言葉を発せられるならば、必ずリアクションがあったはずどっかで。
私も伝えたい事がある。幸い今はブログという、自分の意見を吐き出す場所がある。ブログのコメントには極力お返事をするように努めてはいるが、たとえお返事がなくても、いただいたコメントは十分届いているのでご安心いただきたい。そして、私が書いた記事に何のコメントがつかなくても、きっと読んでくださった方々には何かしらのメッセージが届いているのだろうと信じたい。
この記事の意味する所とは少しずれてしまいましたが、この事件を思い出すとき、どうしてもそう思ってしまいます。 この記事へのコメントはかなり難しいです。なんと言っていいやらと、考えちゃいました^^
大阪に住む男子大学生です。
昨日、秋葉原での無差別殺傷事件の第一審が行われましたね。僕も何年か前から爆問学問を楽しく見ていて、今朝このニュースを見た後、姜さんの回を思い出し、ダビングしたDVDを見ました。初めて見たときに話にのめり込んでいったのと同じように、一つ一つの言葉をかみしめ、自分で反すうしながら見、改めていろいろ考えさせられました。 あの時の番組に意見を残している人はいないかと調べたところ、このブログに辿り着きました。
このブログの最近の日記を少し見た程度ですが、うつ病を患われているのですね。
実は僕も4年ほど前に、大きな挫折を機に深い闇に落っこちるようにして不眠とうつ病を患いました。現在は比較的精神的に落ち着き、長く薬も服用していませんが、この病気に「また昔のように元に戻る、完治」というものはないのだろうと思っています(いい意味での諦めです)。
体の中のエネルギーを燃やす燃料の薪が空っぽになってしまったかの感覚。不完全燃焼した猛毒のガスが体の中を渦巻く感覚。胸を鋭いナイフで刻まれたまま傷跡が癒えることのない感覚。体が以前の何倍も重く感じ、寝床から起き上がれない毎日。不眠、吐き気、自己嫌悪、罪悪感、希死念慮もありました。
それまで、バリバリの体育会ラガーマンを長年続けていた私がまさか精神的な病気を患う未来が来るなんて思ってもいませんでしたが、ゆっくり少しずつ自己内対話を繰り返し、そんな自分も受け入れて、またゆっくり歩きだしている今があります。
どんぐりえさんの日記を見て、生真面目さも感じるほどに自分と、悩みと、疑問と向き合い言葉にされているのを見て、八方塞がりで滅茶苦茶な精神状態の中で自分を整理するために一つ一つ向き合い文章にしていたかつての自分を思い出しました。
僕も1年半程前まで、mixiをしていて、自分の悩みに対して徹底的に向き合って気持ちを一つ一つ言葉にしていました。もちろんそう簡単に気持ちを言葉に整理して並べられないし、いろいろなことが重なった深い悩みだったので3カ月に一回程度の日記の更新になりました。でも、今徹底的に悩んでやろうと決め、自分の現状と徹底的に向き合ってでた言葉を綴っていました。本も何百冊と読み、たくさんの映画も見たりして自分をできるだけ俯瞰して、悩みに悩み、考えた結果、たくさんのことが整理でき、自分の価値観、限界、性格も再認識し、「答えはないものもあること」にこころで気づきました。
それ以来僕は、自分の中で必要以上にこねくり回すことをやめました。mixiもやめました。自己と向き合い言葉にして整理することは大切と思うとともに、日記の書きこみという表現で満足を得るのではなく、違った自己表現でもってこれからの自分の未来を作っていきたい欲求がわいてきたからです。
希死念慮とともにそれ以上の「生きたい」「輝きたい」という気持ちがあったので、僕はもう一度ゆっくり歩いて行くことを決めました。
底なしの海から海面に顔を出し、何年かぶりの空気を吸えたような感覚がありました。出来るだけこころに従って歩み、よける壁はよけて、今はだいぶ楽をしています(笑)。
どんぐりえさんがこれまでどんな歴史を経、現状がどうであるかわからないのに、目上の方に失礼なことを書いているかもしれません。年齢的にも随分僕の方が後輩ですが、文章から勝手に自分と似た気質を感じ、「どんぐりえさんもいろいろ苦労されているんだろうなぁ」と勝手に連帯感を感じました。見ての通り、僕も太田さんと同じく「言葉が多い」です(笑)。
僕は頑張りすぎました。自分の身を引きずってでも這いつくばって無理をしました。そして壊れました。壊れても頑張り続けました。異変に気づいても無理をしました。ボロボロでした。そして、僕は自分を守るために逃げました。
最近の日記に
―逃げていると思われてもいい。逃げることも必要だと思う―
という言葉がありましたが、僕も逃げる勇気を持つこと、すごく大切だと思います。
正確には、逃げたことで誠実な誰かの思いを裏切ってしまったのなら、逃げるということを認めて、逃げた自分を今後も背負って生きていくことを覚悟した上で、一端今は退避する勇気が大切なんだと僕は思っています。ちょっと一服です☆。
僕の好きな詩に
「逃げることの目的は 生きるためただそれだけ」というのがあります。
YOSHII LOVINSONの詩です。この言葉にだいぶ救われました。いろんなことをあきらめました(いい意味で)。
弱さを愛せるようになれると楽になるかもしれません。
僕は今では弱っちい自分の情けなさがたまらなく愛おしく思います。
僕は病気になって本当に成長したと思います。だからと言って病気を肯定するつもりはこれっぽっちもないです。僕も死ぬような苦しみを味わった一人ですから。そしてこれからも大小抑鬱の波は押し寄せてくるのだろうとも思っています。
でも少なくとも、傷つきうずくまって救われない人の気持ちがわかる人間に近付けたと思っています。自分が痛い思いをしてはじめてわかりました。
長ったらしい文章になりましたが、勢いで書いたので言葉が至らない所が多々あるかもしれません。同じ気持ちを経験しているだろう人間として共感したくて書いてしまいました。半分以上自己満足なのかもしれません。この文章がどんぐりえさんにどう伝わるのかわかりませんが、気を悪くなされたらごめんなさい。
また今度ブログ覗かせてもらいます。
最後に僕の大好きなチャップリンの言葉を
「宇宙にある力が地球を動かし、木を育てる。同じ力が君の中にもある。その力を使う勇気と意思を持つんだ。」
美しい人生を。
コメントありがとうございます。
お話のひとつひとつがわかります。
共感してくださって、共感しようとしてくださって、嬉しく思います。
私も今ようやく、「底なしの海から海面に顔を出し」始めているところです。
生きるためには、逃げる事も、表現をかえていくことも必要なのかもしれませんね。
力ある文章を本当にありがとうございました。
更新は少ないと思いますが、また遊びにいらしてください。
改めて自分のコメントを見ると、文章に見るに耐えない圧迫感というか、伝え方がへただなぁと思いました(笑)。
散々えらそうに語ってしまったのに、お返事くださりありがうございます。
お体大事になさってください☆
実はここのところ熱をだして毎日床に臥せています。
でも1人で寝ていても前ほど↓なことは考えなくなり
精神的には穏やかな日々を送っています。
わざわざコメントありがとうございました。
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